1年前のワタシは今のワタシじゃないんだから経緯とかもwikiに書いておいて情報の属人化や暗黙化を回避しよう
ふとしたことから1年前のことを思い出してそれを他のメンバに共有する必要が出てきて「ううん、どうしたものか。」と3秒ほど天井を見上げて思い出したのはwiki。あぁ、そうだ、あのタスク「も」タスクはチケットに、経緯はwikiに残していたんだと思い出して、(URLなんてわすれているから)ブックマークからページを呼び出す。「あーこんなんでしたー。」と一人感心に浸ってみたり。
そのwikiを見ると、ちゃんとタスクの目的やら目標やら関連資料やら打ち合わせメモが残っていて「エライなー、1年前のオレ!」みたいな感覚になれるのが面白くて。そのwikiをディスプレイに表示しながらこれを再び見るきっかけとなったメンバにコンテンツの説明を一つひとつ追いながら解説を始める。
やっぱりと言うか、1年前のことは大分忘れているものです。はっきりと覚えていることは、図表などのイメージのコンテンツ、あとは、子細な決め事は思い出すことが平易な割に、大雑把なことは記憶が繋がらなかったりと、もっと大雑把な概念的なことの方が記憶も繋がりも「覚えているだろう。」と想像していたことと違うを知ることになってその経験が面白いなーと。人とは変なところで関心をするものですねー。
SIプロジェクトをやっていると、局面が進行して試験工程の実施で想定どおりの結果が得られないと「なんでこんな仕様になっているんだっけ?」とコトを決めた経緯をひっくり返してみたりするものです。で、コトが決まったあとの静的な情報は設計書に残っているんですが、その仕様を揉んで最終判断した経緯までは書きませんから、個別仕様検討会などの提示資料や打ち合わせの議事録がないとどうしようもないわけです。最悪は詰んでしまう。
そうした経緯を残す方法が割と身の回りになくて難渋するものなのですが、今回の1年前のたすくについてはwikiにそのあたりの情報を残していたので希薄で短編的な記憶を呼び戻して繋ぎなおすことができて「1年前はこんな風に決めていたのね?」と。
タスクの記録をwikiで追いながらまた思い出したのは、今またその説明を追いながらそのwikiの情報で詰めが甘いとか、1年も経って事業環境が勝手に変わっている可能性のフォローが必要だとか、その場にいたメンバにwikiにチケットを切らせたり、wikiにメモを残してもらうように指示したりしている自分を客観的に認識したとき、「そうだね。1年前にこのtracのチケットやwikiにToDoのメモを取ってもらっていたんだな。」という光景をじんわりと感じたんですね。
いちいち経緯まで残してはいられないけれど、でも、残しておいた方がいいこともあるわけで。今回は、正に後者だったわけです。それも初めから残していたので今回のように、あとあとになってから説明が必要なことになって、ただ、経緯をwikiに残しておいただけで。大げさだけど将来の自分が悩むことをしなくていいとか、メンバがリセットしてはじめなくてもよいとか情報の再利用ができたのは表面化することがあまりない内部コストの削減に繋がったのでよかったなぁ、と。
やっぱりあれですね、1年前の自分は自分じゃないから経緯もデジタルデータで一元的に残しておかないといかんですね。これって、情報の属人化や暗黙化することを回避する手段ですね。これは大きいなぁと改めて思うのでした。
情報の属人化は、その人に聞かないとわからない情報があるということで、例えば先の設計書なら設計した結果は設計書に書いてあるけれどどういった経緯でそう仕様と判断したかの経緯はその設計書を書いた人しかわからない。つまり、属人化してしまっている状態になる、と。で、その設計した人がいなくなってしまえば情報を知る人がいなくなるので暗黙化されてしまう、と。それをwikiが今回、回避してくれたわけです。
経緯も残そう。