自分探しとはどこかに行くことではない

ときどき、自分探しに行くだとか、行っているだとかネットで見かけるけれど、

「自分探しとは内面の自分と向き合うことなのだ」


、と思うのです。


だから、何も遠い地方に行く必要もない。確かに、遠くの地方へ行くことで日常から距離を物理的に置くことは非日常の環境を作るという意味で解りやすいけれど、それに意味があるのなら日常の環境、例えば、住居、仕事、家具の配置を変える方が実利的なのですよ。だって、遠い地方、非日常から日常の地へ戻ってしまったら、元の環境に舞い戻ってしまうのですから。日常から脱したくて離れたのなら、日常を変えなければ自分を変えることはできないのですよ。


内面の自分と向き合うことは、そう容易いことではないと思います。だって、自分の内面は自分しか知らない好きではない特徴ばかりが目立ってしまうから。


だから、自分の良い面、長所は自分自身が気に入らない短所に自分で知らないうちに隠してしまうので、内面の自分と向き合うことを真剣にしないと気づかないのです。


ワタシが真剣に自分の内面と向き合うようになったのは20代の後半です。自分の内面と向き合うということは、自分の好きではない面を深く掘り下げていくことをしたうえで、その好きではないもう一つの自分の特性とどう付き合うかを決められるまでたどり着けることを言うのではないか、と思います。


自分の好きではない面を知るだけで、何もしないのは表面だけの向き合いであって、そんなのは実効性のある行動に結びつきもしないのだからやっている意味も効果もないのですから。


自分の内面と向き合い、好きではない特性を識別し、定性化することで、自分が好きではない性質を自分が扱える形状に初めてできるのであって、その形状を知らずしてその性質を軽減することはできないです。また、自分の長所を捜し、形式化を経なければ、その長所でさえ伸ばすことは叶いません。その両方をするから選択肢を選ぶことが出来るようになるのです。


それを見つけることが自分と向き合うことの本質であって、自分探しなのです。それから言えば、やはり、自分探しより自分と向き合う、という言い方の方が的を射ていると思うのです。


ワタシの経験から言えば、自分の内面と向き合うことは、かなり精神的にグロい経験です。だって、何を好き好んで自分の好きではない面と長々と向き合わないければならないのか、と。目の前のネットや趣味で時間をどぶに捨てていた方が楽ではないですか。そう、時間の浪費は楽なんです。だから、ついつい好きではない自分の内面と向き合うことは先延ばししてしまうんです。


でもね、自分のリソース、知力、体力、時間は有限です。知力は学びを続ければ拡張できるけれど、体力はトレーニングをしていても維持が精一杯で多くは漸減するばかりです。ただ、知力も体力も多少のレバレッジは効くけれど時間はそうはいかない。その意味において、限られた時間を認識するとリソースは適切な判断に基づいて利用したくなるのです。


しかし、どの選択が適切な判断なのかはやってみないとわからない、という不確実性が目の前に横たわっていてこれを回避することは誰もできないのも事実です。やってみないとわからない。


だからと言って、不確実性を批判しても何も得られない。かえって、ソレに費やす方がリソースを適切に利用していないことに気付かなければいけないのです。やってみなければわからないのだから、やってみて、それが自分の期待することのなのかどうかを問い掛け、知ることです。


自分の内面と向き合い、性質を知り、自分の特性と向き合う。そう、好きでない面も長所も。その上で、リソースを適切に投下してその性質を拡張するための実効性のある行動に結び付けるのが、本当の意味での自分探しなのです。