知りたい「なぜ」を知っているから本を読む


朝の陽が昇るのが大分遅くなりましたね。もう、1月前くらいから陽が落ちるのも早くなって夕方の防災無線のスピーカーから流れてくる音楽も1時間早まったりしていて陽がつるべ落としで落ちる何て言うのはうまいこと言うなぁ、と。でも仕事でオフィスの中にずっといると気づくと外は夜景になっていたりして、こうして朝は陽の出る前に夜は帳が降りた後に仕事場に家に行き来する季節になったんだなぁ、と。


ワタシ的には夏より冬の方が好きですね。朝はこう、凛とした感じがあって。夜はもう少し照明が減ると星も見えるようになるんでしょうけど防犯の目的があるからしょうがない。見える☆は少ないけれど、夜の家路をトボトボと歩きながらコンビニのホットスナックあたりをハフハフしながら歩くのも悪くないです。


ハフハフしながら電車の中で読み進めている本がもう数ページになったから入れ替えておこうとか、Kindleより紙の本の方を読んでしまうのはなんでなんだろうとか、読んでいる本って最初は装丁の色使いが奇抜でひいていたんだけど踏ん切りをつけて読んでみたら以外の他面白く読めて食わず嫌い王はいかんな、とか、そんなことを思いつつ家路につくわけです。


ところで、なんで、本を読んだり、ネットで調べたりするんでしょうね。羽川翼曰く、「何でもは知らないよ。知っていることだけ。」と言うことを文意どおりに解釈するならそれは至極は当たり前なことなんだけど言い換えれば「知らないことは知らない。」だし、だから「知らないことを知りたい。」になるかと言えばそんなこともなく。


「知らないことは知っている。」か。いや、「知りたいことを知っている。」なのかも。


自分が知っていることの範疇を知っている。だから、それの埒外は知らない。でも、その埒外を何から何まで知りたいわけじゃない。知りたいことだけを知りたい。


それはなぜ。


エンジニアはその当たりのなぜをぼんやりとしたまま知りたいことを得ようとしているのじゃないかな。知を知るというよりは、エンジニアの性か、知ではなく「値」としてことの結果だけを性急に得ようとし過ぎているのではないか。


こんなことは誰も考えないコトなんだろうか。いや、自分自身が考えることなんてもう誰かがすでに考えていることばかりだ。ただ、自分がそれを知らないだけ。


なぜをぼんやりとしたまま値を理解するためだけの時間と手間だけで値を得ようと駆動する。そんな世界観だもの、得ようとしている値を知に変えられるほどの力が無いんだな。そこに汎化が出来ない理由があるのかもしれない。いや、まだそこに至っていないだけなのかもしれない。とは言え、値をすることから知に変換するところは教えてどうにかなるものではないんだよなぁ、とも思うので歯がゆいと言うか、何とも言えない気持ちになってしまう。


知らないということを知っているし、知っていることしか知らない。そして、知りたいなぜを知っているからこそ知りたい。


それが本を読む理由のひとつ。そして、それは解決したいことの解決するためのシンプルな道具になるかどうかの判別をしたいから。