「良い上司」と「ダメな上司」を見分けても意味はない


大分長くなってきた勤め人の人生をふりかえると行く数多の上司がワタシの前を過ぎ去っていった……。ワタシにとってすごく良い上司は数えるほどで、こんな上司はないなと思える上司が幾ばくか。残りはその中間ですね。


ワタシにとって良い上司とは、別にワタシに依怙贔屓をしてくれるような人ではなく、ワタシの仕事に影響を与える人なんです。それとは反対にこんな上司はないなと思う上司はまったくもって価値観が合わない人なんですよ。


ワタシの仕事に影響を与える上司は、ホント数が少ない。一生懸命思い出そうとしてもひとり……もう一人いるかいないか、です。対極のこんな上司はいないよな、と思う方もそれほどいるわけではなくて。


上司は学校の先生のようなものだと思っていて、どこを共通項としているかと言うと「限定された期間で変わる」というところです。中学校なら最長で3年で卒業してしまえば強制的に変わりますから。同じように仕事の上司も異動や転職してしまえば変えられることが出来るし、先方の方が異動や退職でさることもあるわけです。その点で限定されたお付き合い、と。


と思うと、「上司がー!」とか思うことってあまり生産的じゃないなーと。そうした上司云々について考えるよりもこんな風に向き合った方が仕事的にもメンタル的にも楽じゃないかな、っておもうんです。


これはないなと思う上司は生きたサンプルだと思え
所謂、反面教師、というものです。自分がもし、仮に「部下を持ったとき」あんな風にはならないようにしようと生きたサンプルとして観察し、自分の振る舞いを正すようにするのです。


仕事の指示かもしれないし、相談ごとに対する対応かもしれないし、自分に対する叱咤かもしれないし、何時も機嫌悪そうに働く姿勢かもしれないし、上司が間違えたときに訂正しないことかもしれない。そうした目の前で生きて実演してくれる上司を自分のための教材として生かすとなかなかいいものと思えてきます。


上司は生きたサンプルだと思うと人を理解する訓練になる
上司を生きたサンプルだと思って見るようになると、例え、生理的に合わない上司だとしても生きたサンプルですから現状の上司の有の姿を理解ようとするようになります。そうすると、その上司の観察を通して他の人に対してもありのままを受け入れ、理解するスキルを付けられるようになります。


面倒くさい上司に比べたら、他の人を理解することなんて苦にならないかもしれません。というか、絶対そうなりますから。


自分にとって良い影響を与えてくれる上司が良いのは当然として、これはないなと思う上司だってただ嫌だなんで思って避けていたら何も変わりませんし、酷ければ精神的にダメージを自分が自分に与えてしまいかねません。そんなことになるくらいなら、生きたサンプルとして自分の姿勢を正すために活用するという発想で利用するのがいいです。