“あのバスがどうかしましたか”


失敗を繰り返す人々
ルーチンワークでもプロジェクトの作業でも、毎回同じような失敗を繰り返す人や組織が後を絶たない。
なんというか、懲りないのだ。
失敗するたびに“辛い思い”をしているはずなのに、のど元過ぎれば…を地で行っているように何度も繰り返すのだ。
失敗する人は、過去の失敗をわかっているけれど“つい失敗してしまう”タイプや過去に痛い目にあったことさえ“あたかもなかったように振る舞うタイプ”などいる。
前者は、新しい失敗の予兆を認識することができるので周りも知ることができるが、後者は失敗それ自体あると認識しないので本人からのアラートが上がることがないため、周りは自ら知る努力をしないといつものようにまた、失敗に巻き込まれてしまう。


あのバスがどうかしましたか
普段歩いている道は、歩道と車道が分離されていれば、車道を走るバスと接触する危険性はほとんどない。
路側帯としてラインが引かれているだけの場合、自分がラインを越えてしまうこともあるし、路肩に車が駐車していていれば車道にはみ出て歩かなくてはいけない。
また、反対車線の路肩にトラックが停止していれば、対向車はこちら側の車線にはみ出ることもあるだろうし、そのタイミングでこちらの車道にバスが通過しようとしていたらバスの方が自分の方に近づいてくることもある。

簡単に言い換えてみよう。
ルーチンワークやプロジェクトの作業は、うまくいくパターンと失敗するパターンが識別できていれば、失敗する可能性はほとんどない。
自分から失敗するパターンに手を出してしまうこともあるし、障害物があれば、自分から失敗するパターンのエリアに踏み出さなければいけない。
また、自分の知らないところで障害が生じて、失敗するパターンから“こっちに”近づいてくることもある。


失敗した責任は、意識したときに代償を払う人が負う
“つい失敗してしまう”でも“あたかもなかったように振る舞うタイプ”でも、失敗が発現したら誰かが失敗をリカバリするために代償を払わなければらない。
“つい失敗してしまう”の人は、失敗は認識でるから、その人自身だろうし、“あたかもなかったように振る舞うタイプ”の人は、失敗自体を認識できないから、周りで巻き込まれる人になるだろう。
どちらにしても、誰かがその失敗の責任を代償として払うことになる。


失敗しないためのコントロール
失敗の原因は失敗しないためのコントロールをしないからだ。
きちんとやるための作業は計画を立て実行することができるが、やった方が良いかもしれない作業が想定できないとき、失敗の原因のタネを自ら蒔いてしまうことになる。
“つい失敗してしまう”なら、認識する能力はあるのだから、やった方が良いかもしれない作業を洗い出し、周りにチェックしてもらうことで第三者の目が入り、“つい”見逃してしまう機会を防止することができる。
“あたかもなかったように振る舞うタイプ”は、きちんとやるための作業も、やった方が良いかもしれない作業も計画したときに、周りから“せっついて”ウォークスルーするしかない。
周りが“するしかない”と書かざる得ないのは、失敗しないためにコントロールするしか方法がないからだ。

本当は、当事者が成長して自ら気づき、自らを律して対応できればよいのだけれど、組織で動くときそれを待っていられない。
だからこそ、失敗をしないためにコントロールするのだ。
自らを律し、成長できる人は、このような組織でのコントロールはいらないけれどね。


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