歴史から学べる人は限られる


歴史が嫌い
そう言えばば、学生の頃は歴史は好きではなかった。社会科は好きだったがその中で歴史はダントツの最下位につけるくらいなのに、なぜか社会科の中では一番成績が良かった。あの好きな科目とそうでない科目と相反する成績に戸惑ったこともあった。なぜ、歴史が好きでなかったというと、−若かったから思い込みが大きかったのだろうけれど−、“人は歴史から学ばないから”と思い込んでいたからだ。歴史から学べるなら、同じ過ちは繰り返さないだろうに、同じようなことを繰り返す。そんな世界観に勘違いしていた。


懲りない面々
社会に出て、所謂、学校の勉強は開放されたがエンジニア職だったこともあって、技術は学ばなければならないときには仕方がなく学ぶくらいの学習意欲があるときを境に一変した。それに付いては機会があるときに書き残すかもしれないし、すでに過去ログにちりばめてあるのでここで述べない。組織の中でエンジニアをしていると最初は局所的にしか情報も得られないし、関与することも出来ない。それが、経験を積み、ロールが変わることで手に入る情報の範囲も広がるし、関与する度合いも変わってくる。組織は、会計年度で仕事を定型業務を回すがその回す業務に都度新たなプロジェクトが覆いかぶさり、ビジネスの形態を作り上げる。そうしてビジネスは毎年、いや毎日回る。ビジネスベースがプロジェクトであれば、その成果が事業の結果を大きく揺さぶる。プロジェクトの揺さぶりこそ、lessons learnedであり、あとに知見となる。マネジメントの観点であっても、現場のエンジニアであっても、プロジェクトの成果から得られたlessons learnedがあるなら、良いものは取り入れ、残念な結果を経験したのなら、リスクとしてコントロールしろ、と言いたいはずだ。残念な結果として残した傷は受けれるとしても、“ただで転んで立ち上がるな”と、内心思っているに違いない。


歴史から学べる人は限られる
プロジェクトの大小に関わらず、それでも繰り返す。プロジェクトなのでプロジェクトを構成する諸元は違うけれど、組織として過去の成功事例も残念な事例も残っているだろうし、経験した人は残っているのだから聞く先はあるのに。若しくは、すでに聞いていたのに自分のこととして思い出さないのは、それは“自分でない誰かがやる”と思っているからなのだろうか。
何時からか、自分が意識をしないで歴史から何らか学べると思うようにある意味宗教変えをしていたようで、気付いたら、“歴史から学べるじゃないの?”と思うようになっていた。ただ、自分が歴史というより、過去から学べると思うようになったという表現の方が近い。それの原因を探ると、思い当たることは、“身を削って痛い思い”を経験したからに行き着く。このことから言えば、過去から学べる人は、自分で痛い思いをしたかそれに近い経験をしていないと必要なときに必要になる経験を学べないということになる。それはそうかもしれない。なぜなら、自分の本能が危険を察知しなければ、脳の奥に記憶されている“他人の経験”を自分のこれからと結びつけることは難しいからだ。