仕事の“正解”ばかり求めていると仕事ができなくなるんだよ


学生のときは、学業の実績を試験で計測していたものです。なので、乱暴に言えば試験の結果が100点に近ければ近いほど高い評価を得られたわけです。ところが、社会に出て仕事をしてみると試験はないけれど成果で評価されます。その評価対象は仕事なのですが、どうやら試験に相当するものはないかわりに仕事には2つのタイプの仕事があることに気づくものです。

一つ目は、定量的に結果・成果を確認できる作業。
二つ目は、定性的にしか結果・成果を確認できない仕事。


作業と仕事とわざわざ使い分けしているのは、作業なり仕事なりの内容の到達方法も違うからです。


作業はアナタでなければできない仕事ではない
ワタシは、

“作業とは手順の決まったとおりに処理する所作により成果を得る行為”


だと思っています。その手順は明示的でなくとも決まったやり方をしているならそれを明文化することで手順書に置き換えられます。それは、何を物語っているかというと、アナタがそれをやらなくても他の人に置き換えができるということです。


経営が厳しくなれば、もっと安い労働力に置き換えられる“しごと”なのです。


仕事は正解がない所作である
反対に“仕事”は、“定性的にしか成果を測れない所作をいう”と思っています。つまり、「ここまでやればいい。」とか「これだけ確保できればいい。」とか、目標地点があるものではない、ということです。


これは何について物語っているかと言えば、

“常に正解があると思っている人にはなすことが難しい”


行為なのではないか、ということです。
ワタシなんかは、そうした正解がない“仕事”の方が楽しくやれるのは、性なのか業なのかは知らないですが、少なくとも手順化された作業をするよりは何倍もココロがときめいちゃうんです。
#まぁ、手順化された作業は飽きちゃうから、なんですけど。


仕事に“正解”を求めるとツラくなる
正解があることを期待するということは、その正解にたどり着くルートがあることを期待することになります。それは、その正解の導き方を考えも試行錯誤もしないで、学生がおぼえる公式を手に入れようとすることと同じです。


仕事を始めたばかりのときはそのやり方でもいいでしょう。ただ、そのやり方をずっとしていると次第にツラくなります。


なぜか。


教えてもらったやり方で仕事が解決しないとき、

“自分で必要な公式を導き出せないから”


です。必要となる公式を得るためには、以前に覚えた公式の改変でも全く新しい公式でもどうでもよくて、必要な公式が必要なのだと認識して、試行錯誤をして導き出すというプロセスに乗せて結果を出すということができればいいのです。


その試行錯誤なりの最中で、仕事の依頼元と定性的な目標を合意しながら進めていけば、それはそれで結果も成果も得られる仕事として評価されると思うのです。


仕事に対して常に正解があると思ってはいけないのです。そういった思考パターンを持っているとするならば、それは早々に捨てた方がいいです。結果的に自分をツラく、苦しめることになるから。