仕事を頼むということは教育コストを掛けること


プロジェクトでも普通の仕事でもなんでも、自分の手が足らずに別の人に自分の仕事を頼みたいならやらないといけないことが必ずありますよね。


そうそう、幸い人手が見つかっても頼みたい仕事を説明しなきゃいけないんです。これを面倒だと思うかどうかなんですけどねぇ。面倒なら人を使うことはあきらめて「ご自分でどうぞ」と言うほかないわけです。


忙しくて、手が足らないから頼もうと思ったのに、「説明なんて」と。何と言う自己矛盾。足らない時間を自分で食いつぶしているように「も」みえますねぇ。


じゃあ、他に選択肢はないのでしょうか。


問題は「手が足らないのに説明している時間が」でした。なんか自己矛盾しているように感じているんですよね。じゃあ、その説明を省くことが出来ればいいわけです。そうすると、借りてくる人手のハードルが上がりますけど。


説明を省きたいということは、自分の作業を代替してくれる能力を持っていることが必須になるからです。余所から見つけてくる人手は「代替する作業を実施できるスキルを持っていること」が前提条件になります。まったく何も条件がなかった場合と、「代替する作業が実施できるスキル」を持っている人を比べたら対象となる対象となる人の母数がガクッと減ります。その「スキル」が特殊であればあるだけ。


幸せなことに「代替する作業を実施できるスキル」を持っている人が見つかったら、全く説明なく仕事をいきなり振れるかといえばやっぱりそんなことはありません。ザンネン。そりゃそうです。代替したい仕事の中身は仕事を渡したい側しか知らないんですから。でも、代替したい側と同等かそれ以上のスキルを持っていれば、何をしたいか説明できる資料が寄せ集めでもあれば短時間で何をやりたいか意図を伝えることが出来ますね。ひつような情報と出来上がりのイメージを確認できれば多分欲しいものが得られるでしょう。おめでとう。


でも、世の中そんなに甘くはないのです。仕事を代替したい側、つまり振りたい側よりスキルレベルが低いか持ち合わせていない場合の方が圧倒的に多いのです。だって、仕事を出したい側がその仕事の領域でリーダをしているならスキルのひらえるきーで言えば上の方にいるのですから。


さてそうするとどういった手段が取れるか。諦めて前に戻って自分でやるのか。それとも、説明を一からする方を選ぶのか。


自分でやれるのならそうした方がいいのかもしれません。でも、それいつまでも続けられないんじゃなんですか。この仕事が終わったあとも、次の仕事でも同じようにするのか、と。


この状況下では次の観点で自分に問うのが良いかと思いますよ。

トラックナンバーの問題を考えるか考えないか


その仕事の継続性を考えなくていいなら、好みで選択したらいいです。行き当たりばったりで構わない。


でも、仕事の継続性が求められるならどこかで判断をしなければならないんです。仕事を振りたい側のあなたの代わりを部分的でもできる後継作りをすることを。


そのためには、前提知識としてひつような情報をある程度は整理しておく必要があるだろうし、それを説明する手間も出てくるし、習得するまで育成としてのフォローのコストを掛ける必要があるわけです。


もう、これって託児所を作って仕事を教えるようなものです。まさに教育ですね。これをするかしないか覚悟をしないといけないということなんですね。


結局、人手を借りて仕事を頼むということは教育コストを掛けるということなんじゃないか、と思うのでした