ワタシが集中するには自分で楽しい工夫をしたものしか出来ない


様な気がするんです。はい。


がーっと仕事をする感覚
「集中!集中!」「真剣になろう!」「前向きになろう!」「情熱を持とう!」とか、言いますけどね。正直、ワタシには何をすればそうなるのかがよくわからないです。でも、仕事でも楽しく一心不乱に、こう、「がー」って感じに仕事をしていることもままあるので、「あぁ、集中してたんだな。」って言いう感覚はわかります。


でもね、人に言われたから集中できるかと言うと“そんなことないよ派”かなぁ、と。と言うより人に言われると内心「(何言っているのかなー???)」って感じです。


まるで冷めた目でしか物事を見ることができないワタシのようですけど、まぁ、結構、「パフォーマンスがないですねー。」とか「これ何の意味があるの?」とか思うとザクザクと切り捨てますけど、それほどでもないのではないかと思っているんですが、ワタシに対する一個人の感想でしかないですから何の役にも立たないかも。


情熱はうっとうしいし
情熱はうっとうしいし、前向きは物事をとらえる面を相手の目線に合わせるだけのコトだし、真剣なんて今はそんな時間じゃない、っていう感じですが、集中に関してはちょっとだけ違うというか。いや、今書きながらも、真剣はあれですね、「自分が好きなことに対して思い入れがあるときのこだわりなのかも。」なんて思いついてそれが案外としっくりしたのでそういうことにしておきます。


で、じゃあなんで「集中だけ別扱いなの?」と思うかもしれないけれど、それに、仕事に集中するに至るプロセスが割と自分でも好感しているのではないかと思うんですね。それは何かと言えば、アレです、アレ。


仕事は楽しくやるとは言うけれど
人が何かをするのに楽しいやり方と楽しくないやり方があるとするなら、楽しい方がいいに決まっているわけで。でも、仕事って、やりたいけれどお金はあるけど時間や技術がない人の代行をするので仕事が成り立っているだと思っているので、仕事を委託されるときに楽しいやり方も一緒にくることはないです。そんな仕事なら仕事を出す方がやって、つまらない仕事を見つけ出してそっちを誰かにやってもらうでしょう。


仕事なんて仕事を受けた側、受託側がその仕事をきちんとやる中で、楽しいと思えるようなしくみを作り上げてやるから楽しいと思うのだと思うんです。そのあたりは、全く自由で制限のないところで仕事をするより、制限された環境下でやる方の仕事が楽しさがあるのと同じですね。


工夫すること自体が楽しいから……
で、楽しいと思えるために何をしているかと言えば、その制限された環境下であることを受け入れて、順応するために“工夫”をしているんですね。そう、工夫を。仕事の手続きを標準的なやり方だと制限に引っかかるのでそれをどう回避するか、とか、そういった類です。


まぁ、そうした制限下の方が好きな人もいるし、ワタシみたいにたとえ自由でフリーハンドで好き勝手にやっていいよと言われて喜んで手を付けて痛い思いをしながらも「うふふ、きゃっきゃ」と騒ぎながら仕事をしている迷惑なやつも存在するので人の志向は不思議ですが。


なんだかんだと言って、制限された環境下でもフリーハンドのフィールドでもそこには自分の仕事を、いや別に艦これでもスクフェスのような趣味でもいいですけど、手続きというしくみ作りを幾ばくか“関与”することでワタシやその仕事を請け負った人が“当事者”にクラスチェンジしているから仕事が楽しく思えるのではないか、と思うんです。


この当事者になって、しくみ作りに関与すると俄然気持ちが変わるんですね。だって、どうやればいいのかわかっているんだもの。それは、やりながら手を止めないでいいんですから。結果、集中している、のだと。


そうなんですね、ワタシが集中して仕事をしているのは自分で楽しい工夫をしたものなのでした。