自分の仕事に客観性を持たせることの効用


仕事なんだから、自分の作るドキュメントは人に見られてナンボのハズですが、自分の分身のように周りからとやかく言われるののを「断固拒否する!」的な態度を取る人を見るのはとても微笑ましい光景です。


また、自分で作ったドキュメントなどのアウトプットの仕様はドキュメントを見ればわかるけれど「なぜその仕様になったのか」までは書いてないから「1年前のワタシのばかぁ!!」というようなシチュエーションになることは実感することこの上なくあったりして、そうしたことを単に歳のせいとして片付けてしまうことはリアル年齢がアラフィーの領域に腰までつかっている自分の姿を鏡に映して見るたびに、「それでは単なる認知症なのでしゃれにならないのでは?」と認めたくないと思うのは人情なのだと思いたいのですが。


そうした仕事上のアウトプットを自分自身の分身という位置づけから変えたり、今の自分が作っているアウトプットを将来の自分が見返したときに遺言のように「なぜ」を残すという行為は自分が振る舞った結果を自分の外に出して自分自身が客観的に観られるように主客性を持たせるという意味づけをしていることになるのではないか、と思うのです。自分から切り離し、別の実態として存在させることで客観性を醸成する結果で得られる効用を具体的に示してみたい、と意気込みは十分あるのだけれど、さてさて。


自分のアウトプットを自分から切り離す
自分の分身のアウトプットはかわいい。そりゃそう言う人もいるでしょう。思い込み、いや、思い入れがあって自分の担当する領域のドキュメントを「勘違いして」魂を込めてしまって自分の分身としてしまう。だから、誰かに何かを言われて自分の分身を修正するのは「嫌!!」になるわけです。


そこには自分が時間を掛けたり苦労したりと自分の結果に見合っているかどうかは棚に上げて作ったアウトプットへの思い入れという感情論が先に立っているわけで。


仕事のアウトプットじゃん?なんだから、作った自分のモノじゃない。要求されているものを完了基準をクリアできる条件でexitできるように作る事が必要で、期限の前だろうが期限ぎりぎりだろうがさっさと手離れすることが必要なんですよ。


そのためにも、アウトプットを自分とは別の実体に切り離すことが必要で、作った自分の感情はアウトプットから断ち切らないとけない。それは、分身としている間は、アウトプットを自分の一部と誤認している状態なので、自分の分身と言うしがらみの中でしか思考が出来なくなっている。それを断ち切る。しがらみを断ち切ることで、アウトプットを作った目的に自分自身を立ち戻りやすくすることができるんです。そうすることが出来ないと目的を達成するための修正に集中することはなかなかできないものです。



過去の自分を取り戻す
用があって過去の自分が作ったアウトプットを見たとき「なぜ」そうしたことになっているのかすっかり思い出せないことがすくなくないです。いやホント、自分が1年前に作ったアウトプットや仕様がなぜそうなっているかなんて覚えていないのでつい「あれーなんでだー?」と頭をひねって右斜め上を仰いでしまうのは様式美なのかと。


第一、ワタシばかりじゃなくてほとんどの人だって、ドキュメントに仕様検討した結果は仕様として残してあっても、「なぜ」その仕様になっているのかまではわからないものでしょう。だって、そうならないような仕事の仕方をしていないもの。だから、1年前のワタシはワタシじゃなくなる。で、言うわけです。

「どうして1年前のワタシは1年後のワタシのために『なぜ』の経緯を残しておかなかったのか。ばかっ!!」

「自分の仕事の進め方、実際の作業は自分一人の仕事なので手順化されていない。」


これにつきますよね。だから、知っているのは1年前のワタシだけ。100%属人化であるのに当の本人が覚えていない。俗人化しているのに、覚えていないということは、八方塞がりなわけで。


そうした状況は、ある意味、自分の仕事のやり方を知らないのと同じなのではないか、と。で、そのままのやり方を続けているなら、自分の作業方法が今の自分にとって最適化されているのかさえかわからない。


それでいいんですかねー。


どういった手順で仕事をしているかを第三者の目線で見ることが出来ないということは、現状のままでいいのかどうか判断付かないし。客観的に観ることを意識しなければ、いつになっても思い出すこともキッカケが無いのでトリガーを引きようがないわけで。


客観的に観ることが出来なければ起きている現象を計測することが出来ないから、状態を理解することが出来ないので。それは、計測できないものは評価できないから、という結論しか導くことが出来ないのであって。



過去の自分に会うためにも、作業を書くことが自分の仕事を知る唯一の方法なのですよね。それが客観的に自分を見る一歩なんだなぁ、と。