相手の話を理解するコツは「ワタシにとって最後の教授かもしれない」と思って聴くこと

ワタシは鈍感なので周りの人がなんとなく示唆してくれたり助言の意図で何がを伝えようとしていたことを随分と見逃してきたような気がする。


自分からそうしたワタシを気遣ってかハタマタ助言者に不都合となるのかは差し置いて一向に気づかないで過ごしてきたような気がする。


なので、面と向かって意見を言われるとどうしてよいのか困ってしまう。困ってしまうから、ムキになって根拠も理屈もないことを言って打ち負かした気になるか、面白くなくてそっぽを向いてしまう。子どもだね。いや、素直な子どもにとっては迷惑なたとえかもしれない。


何れにしろ、どうしようもないのである。


人は歳を取ると何も言われなくなる。「大人なんだから言わなくてもわかるだろう。」ということもあるだろうし、ただ本人には言わないだけで仲間内で「あいつは……。」なんて酒の肴にしているのかもしれない。そんな戯言はどう言われていようがあまり気にしない。


ある切っ掛けから、人様がワタシに何かを伝えようとすることが「ワタシにとって最後の教授かもしれない。」と思うようにしてみた。面白いことに、話を積極的に聴いてみようと思うようになった。話の内容は取り留めのないことだったり、ワタシが性格的に合わない人からだったり、お灸だったりすることもあったけれど、聞こうとする気持ちを持っているからか話をニュートラルな言葉の意味のまま受けれられるようになった。


面白いと思ったのはここからで、受け入れられるようになったことで「言葉の意味は表現されているままだけれど、この人が時間を取ってまで伝えようとしていることの真意はなんだろう。」と自然に考えるようになったのはとても興味深いと思った。


そうすると、その話をしている人の責務のプレッシャや悩みが垣間見れるような気がする。「もしかしたらそういうことを言いたのか。」と思いめぐらすようになった。


そうするとこちらの受け取り方がガラッと変わる。まずは、言っていただけていることを「理解」しようとする。兎に角受け止める。そしてその伝えようとしている中から、ワタシの意思で取り入れることがあるかないかをワタシの判断で決める。どんなに性格が合わない人からの意見であっても、それが仕事なら何かしら1つくらいはその人から切り離してワタシの将来にいつか役に立つことがあるかもしれない、という気持ちで聴けるようになる。


副次的作用でそうした話を聴くと言う姿勢は、以前より言葉づかいを含めより「やわらかく」なった。勿論、ワタシ比ではあるが。


こうした姿勢を続けていると、何分、ワタシ比ではあるがより柔和で穏やかな気持ちで接しようとするようになるのが不思議でならない。こうした気持ちでいると、無理なスケジュールで頼まれようが、十分検討されていないままにレビューを頼まれようが、その出来合いが箸にも棒にも引っかからないくらいであっても、一向に感情的にならなくなるのが不思議でならない。


いや、口調はともかく以前から怒ったりはしていないのだけれど。口調はべらんめい調であったかもしれないので誤解を自ら生んでいたかもしれないけれど。


正直、怒っていることは全く無くて、どちらかと言うと、バッサリと冷静に冷酷にモノゴトを合理的価値だけで判断するようになっていく。なのでとても物事が進むのである。不思議と。