意思決定に迷いが出るのは人の意見を自分の意見に混ぜてしまうから


ブログの紹介欄にあるとおり、もうすぐ50歳なので、孔子のアレでいうと、


「五十歳にして天命を知る」


に足を踏み入れることになるんですが、天命なんて未ださっぱりわからずです。ましてや、自分の生涯における使命を見極めた、なんてとても言えない。


まだまだ、あちらのプロジェクトが怪しいと聞けば燃料を投下し、こちらのプロジェクトが危ないと聞けばチャチャを入れる程度の悟りを開いた程度のレベルです。


確かに50歳を前にして「四十歳にして惑わず」とは、うまく言ったものだと思います。だいたい、仕事上で「どうしようかな?」なんて言っている時は大体腹づもりがあるもので、それほど困っているところも実はないもので。


それより、いかに過去の成功パターンを記憶から引っ張り出してくるか、もしくは、失敗のアンチパターンにならないようにするか、あるいみパターンにはめる刺身タンポポな仕事なのではないか、と。


では、50歳のそれはどうかと言えば、「悟りが開け、人生に対しての疑いをいだかなくなった」ことのうですが、もともと、確かに半分程度いや、それ以上は人生に対して疑いなんていないもの。


40歳の迷ったり、50歳の疑うのって、自己との対話と、以下に自分の意思決定から他人を除くか、ってことなんじゃないかな。そう思うです。


もちろん、人の話は聞くけれど、自分の意思決定には入れてあげない。逆に入れるから、意思決定にノイズが入って迷うんだね。