育成対象者には育成者ドリブンとなるような仕組みが必要なのはなぜか


ワタシが学生の頃はいざこざを繰り返す歴史からは何も学ぶことができないと思っていました。若かったから考え方がとても極端な気がしますし、そんなことを考えていた背景には日本史なり世界史は覚えるのが大変で好きではなかったということがあったからかもしれません。


今はこうした過去の出来事から学ぶ事ができるかどうかという事に対して考え方が変わったかどうかを聞かれるとどうにも歯切れが悪い答えしか返す事とができないかもしれません。


今ワタシがこうした過去の出来事の対象としてイメージすることはやっぱりプロジェクトマネジメントの領域のことになってしまいます。この場合、プロジェクトマネジメントのエリアの中でも

・よりプロジェクトを安全に遂行するためのtips
・プロジェクトマネージャを育成するためのヒント


のようなことに関心を持っています。


では、具体的な関心を持っているのになぜ歯切れが悪くなるのか。


まず、過去の出来事として学べる事柄は、

・悪い結果からそうならないように学ぶケース
・良い結果から同じ結果になるように学ぶケース


の2つが考えられますがこれらは相互を合わせると全体のケースを網羅できるようなものではないことに留意しておくことが必要です。それぞれの視点で、そのケースの主体者の視点もしくは第三者の視点で得られるであろう暗黙知を恣意的に形式知に変えられているからです。


どうして歯切れが悪くなるか。


その背景には、学ぶことを主体とする側が誰であるかによるからと思っているからです。ワタシがワタシのスキルを向上するために学習するのであれば、悪い結果でも良い結果でも「ワタシが価値を認めたもの」については何らか得るものがあります。この点においては、ワタシは過去の出来事から学ぶことがあると言えます。


ただ、学ぶ対象がワタシではなく例えば育成対象者であるとするなら、それは少し違ってきます。主体者である育成対象者が過去の出来事から得る価値があると認めてくれない限りその出来事に関心を寄せないからです。


そしてそのような関心を寄せることを第三者から育成対象者に対して影響を与えることは思っているような簡単なことではないということを頭でわかっていても本能的にも理解しなければいけないことを知っていなければなりません。


それに必要なことは学習の当事者であることを認識させることですが、これはそうそうと認識を改めることではないということも合わせて理解が必要です。これはその対象者に自分を当てはめればよ容易に理解できることです。


ではここで諦めるのか、それとも関心を持つまでひたすら待つしか方法がないのか。そんなことはないと思います。それは目の前に関心を持てるように見せることです。例えばワークショップのように経験させることで関心を芽生えさせたり、共感する気持ちを醸成したりすることで可能性を対象者ドリブンで働きかけるのが良いと思うのです。


育成を急ぐのであれば、一定の量を確保するのであれば、その目的を達成するために待つのではなく仕掛けが必要です。