何者にもなれないエンジニアの「何者」の選択肢
何者かになろうとは思ったことはないけれど、一時はこのくらいの役職までなりたい、と強く思っていたことがあったのははしかのようなものだったのかもしれない。
で、そのあとになんか無理そうだと半ば諦め感を感じつつも別の方向でやることを見つけてそっちで勤しんでいたら、まあ、そのなりたい役職の縁までたどり着いたようだったけれど、そんなことよりは別に勤しんでいる方が楽しくてどうでもよくなった感が出てきたことに人の関心事とは可笑しなものだと改めて思ったり。
上のエントリで引用されている元記事(↓)も眺めた上で、人の役割とは何かしらあると思うんですよね。エンジニア界隈で考えると。
また、エンジニア界隈のことかと思うかも知れないけれど、まあ、そこはエンジニアの部分をご自分の職業(学生ならそれに)脳内で置き換えて読んで見てください。
話としては通じますから。
シロクマさんのエントリの標題にあるように、何者とはニーズなんですよね。そのニーズもなりたい側がなりたいと識別する何者はその何者を欲しいと思っている側、つまりマネジメントサイドのニーズなんです。課長職とか部長職とかそういったものはマネジメントの組織論が具体化したものだし、組織の意思決定の文化が具現化したものです。
それに憧れを抱くエンジニアはマネジメントのニーズを識別したことになるのです。そうして識別したニーズになりたいと思うこと自体は役者が変わってエンジニア自身の実現したいニーズになるわけです。手に入れたい、と。
ここで需要と供給の市場が形成されるのですが、なにせ買い手市場です。ポジションは組織の構成がヒラエルキーの階層構造であれば最上位は一人ですから。エンジニアがどの役職になりたいかでコンペティタは増えるし凌ぎを削ることになるのは当然です。
こうした市場において、ただ何者にもなれないと思うのではなくて、双方の、需給の市場としてのニーズがあるということの認識と合わせてそうした市場、特に買い手市場の場合の決定権は買い手にあることを認識することに意味があります。何かと言えば、買い手の価値観に合わなければいくら何者にかになりたい、役職につきたいと思っていてもそれは価値観がずれてるから実現する可能性は限りなくゼロである、ということです。
マネジメントサイドを上とするならば、じゃあ、エンジニアのままでいることが何者にもなれていないかというとそうでもないと思うんですよね。その組織の中では何かの役割を担っているから組織に残れるのですから。ただ、エンジニアとしてなりたい何者かになれているかはエンジニア自身がなりたい何者の何者を具体的に持っているかどうか、です。
役職なのか、専門性の高いエンジニアなのか。
中年だからといって誰もが役職に就かなければならないということはないです。年功序列が残る組織なら管理職の割合は数%が多いでしょう。多くの中年エンジニアは主任や部下のいない課長職止まりでしょう。なぜそうなるかは前述したとおりです。
個人的な思いは、組織のニーズを満たすことができそうだ、できていると思うならヒラエルキーを上がればいいし、そういったニーズではないでもエンジニアとしての専門性のあるニーズを組織を通して社会の需要に応えられると思うなら専門性のある何者かになる道を選択する方が自分で実現したいニーズを満たしやすいと思うんですよねぇ。
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