議論のリアクション次第で老害にも他人事にも受け止められる
某所でウォーターフォールはいつからウォーターフォールと呼ばれたかとやり取りをされているのを見かけて、開発手法なんぞ事業課題の解決に適した手法を選べば良いのではないかと思ってしまう。
もう大分見かけなくなったが、ウォーターフォールをアジャイル開発がイケていないと煽るスライドは見ていて興ざめする。ウォーターフォール型のシステム開発に合っていない業務課題の解決プロジェクトに使っていることには全くもって賛成もしないし、それで失敗することに哀れみを持つことはないのだけれど。
何度も書いてきたが、システム開発のプロセスの標準プロセスがないのが問題の起因なのかもしれないが、あればあったで、標準プロセスどおりにやったのに上手くいかないのは標準プロセスに欠陥があるからだと言うのだろう。
手段を知らなければその手段さえ選択肢に入ることはない。要件を理解しようとしなければ、適切な手段を選ぶこともできない。そして、そう言ったことを考えるエンジニア自体が希少なのである。なぜなら、全てのエンジニアにそう言ったことに関して関心を持っているなら、死屍累々に多くのプロジェクトの山となっているはずはない。
見方を変えると、こうしたシステム開発手法について議論にふけるようなエンジニアは現場から一歩も二歩も引いて全体を俯瞰しようしている視座を持つことをできるようになった特異なエンジニアなのかもしれない。
それで議論をできるほどの知識と経験を持っているとそれに縛られて語るようになる。無意識に自分を縛ってしまうのは、ある意味老害の始まりではないか。
自分自身を振り返ると、話を聞いていて、秒で言い返したくなるときは、まさにそれで、議論ではなく言い返したいだけになっていることが多かった。今は、そうだねと聞き流し過ぎで、他人事のように思っているように受け取られることがあるようで、リアクションはなかなか難しいものである。