そう、大層に構えて言うことではないけれど...

子供と大人をどのあたりで括るかとか定義するかとかに意味はないのだけれど、「大人になる」ということを考えるのには、子供と大人というゾーンで考えるよりは、不明瞭で曖昧な線が引かれていると考える方が腹には落ちやすような気がするので、そう仮置きする。

自分の体験を思い返すのは、喜んで振り返るような幸せな思い出が山積みであるなんてありえないくて、あぁ、あれは嫌なことだったと思い出して、フヘーと口からこぼれるなら、まぁ、まだあのことが悔やみきれていなくて、消化不
良のままなんだなぁ、という台詞が頭を過ぎるだけ。
馬鹿なくせに、弱いくせに正義感ばかりが顔からはみ出して、自分が然も正義の代弁者のように、周りで起きる事象に噛み付いて、そして自分で嫌な気持ちになって、塞ぎ込んでしまう、ステレオタイプの青臭い、小便臭い餓鬼だったころを今でもすべて自分自身が選択して猛進した結果だったと頭で理解してももう良い歳のはずだ。

子供のころは、あの大人の線を超えることができなくて、ただ憧れただけだったのに、例えば、妻子を持つときには、本当に自分がそれに相応しいのか、それらを背負っていくことを自分の腹を決めるのは、大人のあの一線を越えたような気がしてならない。あの一線は、悪魔でも線が引かれているだけで、不条理で曖昧な人間が超えるのだから、いつでも中途半端に戻ってこれてしまう。

子供のときにできなくて、大人になってできることがあるのかといわれれば、そうではないのだよ、と応えるだろう。子供のときに、幾つもの出会いがあり、出会いの最中に起こる出来事を超えられればよいのだけれど、いつもいつもその出来事を越えられるわけではない。その超えられない出来事を生真面目に、すべてを一つひとつ超えようとすると、あまりにも耐えられなくて落ち込んでしまう。

出来事は、すべてを解決する必要がないことを知り、時間が解決してくれることを知り、それより、自分自身が本当に嫌なことは、自分がその出来事を良く知らないで、不安で避けて避けている自分を知り、それに向き合い、嫌なことから片付けてしまおうというと思い、それが自分でやり切れれば、もう大人なのに違いない。

ただね、人間は、不確実で不誠実で不安定で曖昧な生き物なので、いつでも子供に戻ってしまう。でも、一度、大人の線を越えられたのなら、いつでもまた大人として振舞うことができるから。