コミュニティの良し悪しは、参加者に聴かなければ分からない


今日も“はじめてコミュニティ”ネタで。参加者と直接会話しないと分からないことは沢山ある。それから思ったことを少し書こうと思う。


世の中のトレンドは、まだまだアジャイルではないらしい
組織の特性なのかどうかわからないが、何人かの参加者に感想を聴こうと思ってと会話をしたら、ガチガチのウォーターフォールなのだと力説する。よくよく聴けば、金融業界らしいし、規模は大きいようだ。そんな風なトーンで話す参加者が多い。それを聴いて、「まだアジャイルWebサービス」などの限られたモノなのか、と改めて認識した。顧客もサービスするデリバリーする側も、これから、って感じなのか、そもそも、金融業界のようなところはこれからも導入されないのどちらだろうか。どちらでもいいのだが、一つの開発プロセスでは、そのうちに制度疲労を起こすのは必然だと思っているので、なんらか延命措置若しくはカイゼンに拠ってこれまでのウォーターフォール魔改造することは違いないだろう。それには、ウォーターフォールスクラムのプロセスを組み込むものも含まれている。
ワタシとしては、この魔改造であるウォーターフォールスクラムのハイブリッドなプロセスが現実解なのだと思う。


受身のエンジニアの存在
参加したエンジニアのDialogueを改めて見直してみると、課題意識を持つエンジニアの意見もあれば、悲観的なコメントを露呈するエンジニアも存在する。勿論、参加人数が増えれば増えるほど、比率として存在することを想像すること自体容易いことであり、想定はしていた。が、実際、どのようなコメントするか迄はその必要性からも想定しておらず、新鮮な心持で聴くことが出来た。悲観的なコメントの中には、実は課題意識の裏返しであって、それほど心配する必要がないものもなるが、気になったのは「受身のコメント」をするエンジニアの存在であった。エンジニア全体を母数とすれば、いくらかの割合を“受身の”エンジニアが占めることは、マネージャをしていると想像が付くものだ。その点から連想すれば、自分のチームから、コミュニティ参加者に含まれる受身のエンジニアも想定することも可能だった。それを想定することに何ら価値も意識もしていなかった、−いや、準備でそんな余裕がなかったからだが−、だけなのだが。


やっぱり拙い受身のエンジニア
では、何故“受身”では拙いのかというと、コミュニティは相互に情報を交換することが狙いだから、片方が受身ではそれに相対する側がgiveだけになってしまう。これでは、コミュニティは尻つぼみになってしまうことが明らかだ。やはり、コミュニティは、give & takeなのだ。なので、受身のエンジニアの存在は、コミュニティにとって困る頭痛の種なのである。とは言っても、全くなくなるわけではないから、コミュニティの運営サイドとしては、何らか手を打たなければならないがそれはおいおい考えねばならない。答えを持ち合わせているわけではないし、もし、在るとすれば、これまで幾数多のコミュニティが消えて行ったように同じ轍を踏まざる得ない。それは、避けたいのである。
多分に、受身のタレント性は、生まれ持った性格の一つから来ているのであるが、後天性のタレント性でも修正が全く効かないわけではないから受身だった姿勢が少しでも前のめりになるような運営をしていく工夫が必要なのだろうと思っている。
さて、どうしようかな。








  • 道具室(アプリとか)



ほんと、1-2週間、新しい本で読みたいと思う本に出会わなかったが、これは続き物なので読む。登場人物と名前を忘れていたので思い出すのに四苦八苦。ちょっと独特な読みなんだよな。

  • 音楽室(PCからリンクをクリックするとき、PCにiTunesが入っているとアプリケーションが起動します)
  • 視聴覚室
  • 調達室

ウエストの文字の色が赤くて派手でした。少しローライズっぽいのは気のせいか。あと10センチは、股下が長くても良いともう。