継続はパターンと改善を生む源泉なのかも
すっかり、決まりきった時間にブログを書いていたり、読書やネットを見ている最中にも「これブログのネタ?ネタ!」とか思うようになったのは少し病気の世運気もしなくはないけれど、まぁ、昔からマニアとかある特定のエリアのサブカル好きを捕まえて一絡げに称する言い方もあるくらいだから、ワタシもそういった一塊の片隅におかれるくらいの病にかかっているのかもしれないなぁなんて思うほど、毎日飽きもせずに更新しているわけですが。
こうして苦労なく継続できるようになるまで、それはブログも仕事も趣味でも、−あぁ、仕事が趣味の人は2つしかなくて残念ですね−、そうですが、続けられるということ自体一つの才能なのではないかと思ったりするわけです。別の見方をすると、続けられるということは、それを続けようと思ってもそれを阻害するモノ、コトを回避や排除してさえも乗り越えて続けるという明確な意思がなければできないものですから、やっぱり、先天的なタレントなのか一度手に入れたら二度と放さないという特殊な性格なのか、いづれにしても一つの貴重な特性をベースにする特性に基づいているのではないか、なんて思ったり。
ものごとを、振る舞いを続けることは、それを邪魔する理由を見つける方が楽ですよね。「昨日3時間しか寝てねーし。」とか。「(じゃあ今日はいいよね、オレ。)」みたいな。
でもある閾値を超えるとその継続していることを止めることに対してとても罪悪感が生まれちゃうのも不思議と思えば不思議ですね。まぁ、それも自分でそれまで時間もお金も何等かのコストを自腹を切って費やしているから、その続けていることを止めちゃうことに対するコストがとてももったいなく感じるから、ってだけですが。戦略的には継続するかやめるかを判断するのはそれ以後に投入するコストとリターン(事業ではないから、金銭的なものである必要はないです。幸福感でもよいよ。)をはかりにかければいいだけなんですけどね。過去の費やしたコストは、今マネタイズできていないなら、これからも再利用できないならもう「楽しかったね、頑張ったね。」で済ませる方が幸せなじゃないかな。
続けられているということは、自然と続けられるように自分で習慣化=パターンしているんですね。これをやった後にやる、週末のご縁中にやる、朝8時までやる、とか。習慣になるから抵抗感がなくなるのは不思議と言えば不思議。でも、勉強をするのだって初めは勉強の仕方をなれるためにたくさんの時間を使うんじゃないかなと思えるくらい詰め込むものね。体と頭を使って振る舞うことを覚えるわけで。
で、続けることはあるエリアの中で自分の関心を持ち続けることで、それは何週か巡っていれば飽きるものです。人は飽きますよ。だから自分で興味を持つことを探すんですね。それが今やっていることの隣のことだったり、深く掘ることだったりと。
良く飽きもせず、なんていうけれど、それ絶対違う。その人は自分の関心を、興味を充足させることを自分の習慣の中でいつも探しているんだと思う。そのエリアを中心にして幅をちょっとずつ広げるとか、深堀するとか。自分で自分の関心を満足させることを自給自足できるから長く続くのだと。これも一つの才能なんだなぁ。
というわけで、何でもいいので一つくらい続けていきましょう。