仕事で疲れちゃうのは「やっていないこと」に悶々と悩んでいるから


毎度、昔話ばかりで申し訳ないのですが、あなたもアラフィーに首までつかるような年齢になれば心境もわかるのではないか、と思いたいものです。いや、後悔や黒歴史はだいたいティーンエージャーや20代の頃がピークで次第に減っていくのだから仕方がないんですよ。歳を重ねるようになれば後悔や黒歴史を作り上げるような時間さえ確保できなくなるんです。そうだね、仕事、家庭、そのほかの役割を兼務で追うようになると時間的制約が付きまとう。そういうことなんですねぇ。


で、それを踏まえて悶々と一人気を無駄に揉むことが多いのが20代とかだったかもしれないです。特段、仕事ではうまく自分を使いこなせていなかったこともあって、自己中心的なダークサイドの自分が表に出てきているときには、暗黒面に落ちかけているような思考ばかりしていたような気がしてならない。


そういったダークサイドの自分が暗黒面で悶々と思考をこねくり回していることは、今思えば大体

「やっていないこと。」


ばかりだったと思うんですね。「やっていない」からこそ、「もしそれをやったら?」とか「もしやらなかったら?」とか考えてしまう。その「もしやったら?」のバリエーションを頼まれもしないのに「もしやったときにあの人はどう思うか?」とか自分の手の届かないことをただただ妄想してしまうループに突入してしまうんですよね。


それでは疲れてしまうだけなのに。


なってもしないことを悩むということは、選択肢の話であってその結果を評価しても仕方がないんですよね。選択肢を選んだ結果、何が起きるかを想定して、その後のアクションを考えるなら話は別ですけど。というか、そこまで考えられるなら立派です。現実はそこまでたどり着けなくて、その前の選択肢を想像してモヤモヤしているだけで。


やってもいないことに悶々としているということは走ってもないのにただエンジンを空ぶかししているようなものです。だから、移動もないのに燃料だけ無駄に消費して、エンジンは悶々とすればするほど高回転で回すからエンジンオイルは減るし部品は摩耗しちゃう。


結局疲れちゃうだけ。


一方、「やったこと。」は、もう、誰が見ても客観的にそのアクションは終わっているから変えられない。「もし」はないのですよね。先方がいるなら、もう、先方はそのアクションを受け止めているのでそのリアクションは変えられない。だから、やってしまったことだから悶々としても仕方がなく、あきらめもつく、というわけです。


だから、「やらない」方を選ぶより「やっちゃえ!」っていうんですよね。やっちゃてから疲れるのは選択した結果のフォローだからそれに手間をかけるというか始末する意味で甲斐はあるわけだから。やらないことで悩むのはメンタルと時間の消費だけですからねぇ。


そうか、時間とメンタルだけを消費して、何も生まないから疲れてしまうんだ。思考や考えをまとめるというのとは違うね。それなら、まとまった結果があるもの。時間を掛けた成果がね。得るものがあるから疲れないというか疲れても納得できるんだね。
なるほど。