指摘をする資格を持つものが、資格を持たないものに対して容赦なく知識を振りかざす

少し前のレビューに召喚されて出て、レビューイの説明に対してファシリテータを兼ねていたレビューアのリーダの指摘がいつもなんだけれど、どうにも的確に指摘をしておらずモヤモヤといつものように消化不良を起こして気持ち悪い。


いや、この人、このレビューリーダの指摘はいつものことなのでそれほど気にする必要があるのかどうか、という見方もあるけれど、多分、ワタシの中でその日は何が違っていたのかもしれない。例えば、それまではそれほど気にならなかったり、華麗にスルーしていたことが、それ以後からその日のレビュー前までに知らずに若しくは興味を持って知った関心事とその不確かでモヤモヤしていたレビューの指摘に対しての感じ方、受け止め方に対して変化をさせたのかも。


得てして、レビューアの指摘はレビューアたる資格を満たす知識を持っていることが暗黙のベースラインとしてあって、誰しも無意識にそのベースラインの上に馳せ参じてレビューイに指摘事項を突き付けているような気がしてならないんですが。それは、言い方を変えるとするならば、

「指摘をする資格を持つものが、資格を持たないものに対して容赦なく知識を振りかざす。」


といってもいいのではないか、と。もっと簡単に言えば、スキルを持っているかどうかわからないエンジニアが作ったレビュー対象物を知識を持つレビューアが知識を振りかざす、みたいな。


まぁ、個人の印象と言うか、妄想です。で、ここまでは前座。それより、件の曖昧な指摘をするレビューリーダなんですが、何に対してワタシはモヤモヤとしたのか、です。そっちの方が大事。


レビューリーダは、一応レビューアを担っているのでその点では誰かがcertifyしているわけです。それからそのレビューリーダはレビューアとして存在するための個人の経験をもとにした資質をもっていることになり、それが資格を満たしているわけです。それは第三者に認識されるためのqualifyを保有していると考えるのが順当な考えになります。
#ま、そうでないことも多いですが。

(レビューリーダ個人の経験)


イレギュラーなケースは棚に上げて、正しいプロセスで認定されているレビューアだとすると、レビューアは次の資質を持っていることになります。その資質は実は個人の経験ですから、イコール暗黙知でもあります。

(レビューリーダ個人の経験)→(暗黙知)


そして、その暗黙知は、レビューの場でレビューイの成果物に対しての指摘として言語化されるわけです。で、その指摘を横から見ていると、どうにもこの言語化されるところでご本人の中でどんな経験をもとにした暗黙知なのか、それも暗黙知を元に指摘していることを認識しておらずに指摘をしているのではないか、と思わざる得ないなぁ、と。

(レビューリーダ個人の経験)→(暗黙知)→(言語化)


なぜなら、言語化した時点でその場に寄り集まっているレビューア、レビューイが理解している風ではないから、です。ご当人の暗黙知が言語化された時点でご自身の中で再定義されていないのではないか、と思うのです。

(レビューリーダ個人の経験)→(暗黙知)→(言語化)→(再定義)


暗黙知が言語化され、再定義されないということは何を意味するのでしょうか。それは、暗黙知が言語化されても暗黙知の下のままの個人の経験のままであって、汎化、パターン化されていないということを意味します。言語化されて再定義されるとき、個人の経験特有のことは削ぎ落とされるものです。それは個人が経験したケースと同じような場合に対して同じ思考ロジックを適用して答えを導き出す公式のようなものになっているはずです。

(レビューリーダ個人の経験)→(暗黙知)→(言語化)→(再定義)→(形式知)


それが面前で言語化されるということは形式知として認知されるはずなのにされていない事象になっている、と。

(レビューリーダ個人の経験)→(暗黙知)→(言語化)→(再定義)→(形式知)→(共有)


と、思ったんですね。それ、形式知が場で共有されていない、理解されていないのだと。


じゃあ、なんで共有されないのか、って話です。で、あぁ、このレビューリーダの場合、「暗黙知の再定義が上手くいっていないのだ。」と。なら通じないわ。だって、その人の経験はその人のものだから。それを他の人に伝えるには同じ体験をしなくてもいいように公式にして伝えないと受け手が理解して自分のことに重ね合わせられて初めて理解できるようになるんだから。