失敗プロジェクトを語り継いでも意味がない


数多のプロジェクトは始まりがあり、終わりがあります。それはプロジェクトが有期限性の特性を持っているから。昨日もまたいくつかのプロジェクトが終わり、今日またいくつものプロジェクトがスタートするのです。


ISO9001が普及したようにPMBOKも市民権を得て、いつしか標準規格やプラクティスにはPDCAが織り込まれそれをプロジェクトは自らの組織で拵えたルールで自らを縛りがんじがらめになっていくのです。たしかにそれは成熟度や能力が低いレベルから一定のポジションに押し上げることができるという素晴らしい効果があります。


そのルールには基準規格にそってPDCAを回すように要求され、ルールとして制度化されているから終わりを迎えたプロジェクトは教訓の落ち葉拾いをしなければならないのです。


さて、終演を迎えたプロジェクトから教訓を得ようとするとき、いったい現場では何が起きているのでしょうか現場のプロジェクトの終わりの儀式では何が学びとして回収されているのでしょうか。


もしかするとプロジェクトの結果だけを拾っていないでしょうか。


成功したプロジェクトは「よかったね」「がんばったね」と結果の表層だけをなぞらえて感想を言っているだけになっているのではありませんか。直近に体験したプロジェクトの報告会では誰が何を発言していたか思い出してみましょう。報告会のファシリテーターはどう誘導していたのでしょうか。


成功したプロジェクトは結果的に成功していた、QCDをすべて計画さえた目標の内輪に収められたから成功しているのですがそれがなぜ出来たかをプロジェクトマネージャに聞き出している出席者はいたのでしょうか。


何をリスクとして識別し、何に注力し何を捨てたのか、プロジェクトマネージャとしてどう判断していたのかに関心を持って傾聴している人はいたのでしょうか。


同じように、失敗の烙印を押されたプロジェクトはプロジェクトの報告会でどのような扱いを受けていたのでしょうか。QCDのいづれか若しくは複数のプロジェクトの目標をオーバーランしたことでプロジェクトマネージャが生贄として断罪の場に捧げられてはいなかったでしょうか。


失敗したプロジェクトは如何にして失敗の結果に帰結したかを問われずに結果だけで断罪されていないでしょうか。繰り返しますが、失敗に至った過程を丁寧に聞き取りしている出席者はいたのでしょうか。


プロジェクトは似て非なるから唯一無二なのです。であるということは、人も似て非なる行動を取るのだけれどそこからたどり着く結果は、それぞれのプロジェクトの目標に対して成功か失敗しかありません。


そうであれば、終わりを迎えたプロジェクトから得るものは、その結果に至った経緯を尋ねなければならないのです。それがその場に居合わせる人が負う義務なのです。そして、何をしたら失敗に至ったか、どうしたら成功の可能性をあげるかもしれないのか、それを赤裸々にしなければならないのです。


それが教訓を得て学ぶということです。そして学んだことを次に始まるプロジェクトに引き渡すことこそPDCAを回すということなのです。


失敗プロジェクトを語り継いでも意味がない。
失敗にたどり着くまでに何があったのかを語り継がなければならない。
そこに失敗に至るプロセスの誤りが隠れているのだから。


成功プロジェクトを語り継いでも意味がない。
成功にたどり着くまでにリスクをどう判断したかを語り継がなければならない。
そこに成功に至るプロセスの真が隠れているのだから。