幸せは能力を超えた問題に挑戦している最中に感じられるか


うちの子どもたちとワタシが子どもだった頃を比べると、うちの子らはいわゆる物欲が少ない感じがするんですよ。子どもだから欲しいものを欲しいと言えない環境を作っているのかな、なんてこれを書きながら自問をちょっとだけしたけれど、どうやらそうでもないみたい。


ひとりは服をときどき帰り道で買ってくるようなので、そうしたこともないようだし、もうひとりは部活で使うシューズを「そろそろ買い換えたいんじゃないの」と聞いてみるとそうしたときは忙しいスケジュールの合間を調整して、買いに行こうとするので欲しいものはある程度手に入れているのかなぁ、と。


ワタシが子どもの頃は欲しいものばかりだったような気がする。あれはなんでだったんだろう…。それでなけなしのお小遣いをもらってひとりでお菓子を買って食べてもそれほど嬉しいわけでもなくて。そんなことを何回も繰り返してきたような気がする。あの頃の幸せってなんだったのかな。


今更だけれど、幸せを感じるのはそうした物理的なもので満たされることじゃないなんだなぁ、と。いやいや、今だって欲しいものはあるけれど、わざわざ買う理由を自分に作って買うようなことはなくなったかなぁ。しばらく放っておいて、やっぱ買わないとダメだわ、的にはなれたかも。


でも、あれだ、IT関係の書籍は除く、だけれど。これははずしたくはないので本屋でパラパラと確かめたりするけれど。でも、基本買いますねぇ、本。


それで、今だと仕事でワタシが未経験の問題にチャレンジしている間に幸せを感じるような気がするんですね。そうそう、知らないことにチャレンジするのがいいんですよねぇ。知的マゾっぽいですねぇ。知的マゾ、いい感じな新語?と思って検索したらそっち系で検索結果が出てくるので、検索しない方がいいかも…。


まぁ、そういうことを言っていられる程度の環境を作れている、っていうのはあるのかもしれないですけれど。


シニア層になって若者を批評するおじさんたちがいるじゃないですか。話していると段々と声が大きくなっていく人たち。こうした人たちって、多分、さっきの未経験の問題が理解できない=過去の経験で解決できないから思考が止まって感情的に反応しているんじゃないですかねぇ。


そういうの、嫌じゃないですか。思考できなくなのって、もう、脳死しているみたいで。なんでもかんでも受けれてしまうのもなんか違うような気がするのは主体性がないように感じられるからだろうけど。


まずは受け止めて、未経験だと判別できて、どう扱えばよいか考えて、定石どおりに対処すればいい問題なのか、ゆるくゴール設定して、ベストエフォートで変化させながら答えっぽいものを探し当てていくか、そうした受け止め方と対応がそれこそ柔軟な対応なんだろうし、おじさんたちに求められている期待なんだろうと思うわけです。


そして、その過程の中に感じられる幸せがあると。