コミュニケーションにコストは存在するか
コミュニケーションにコスト感を感じることにとても違和感を覚える。他者がそう感じるのは別に構わないが、コスト感を感じる側がコストを下げる働きかけをしているかといえば残念ながらなさそうだ。
例えばこんなエントリがある。
簡単にまとめれば、依頼する側が依頼の条件を一度に伝えて欲しいと言うものだ。興味深いことに文脈(流れと表現)で推し量れるのであれば良いのだと言う。
確かに、依頼する側が依頼時に条件を全て提示すれば受ける側はそれで依頼側の期待に応える条件を認識することができるだろう。
ただ、ちょっと待って欲しい。依頼する側が依頼する際に条件を提示できるほど決まって依頼しているケースはどのくらいあるのだろうか。
依頼する条件がわかって依頼するのは作業指示書を出すようなものだ。期待する結果があり、その結果を再現できる手順が確立されており、必要とするスキルもしくはそうした条件もなく、手順書を読み、理解できれば期待している結果を得られる。
こうした作業にコミュニケーションコストという感覚は持ち合わせるのだろうか。多分にないだろうと思う。
ではどういったときにコミュニケーションコストだ、と感じるのだろうか。
自分の経験則では、コミュニケーションを取る時点で相手に期待する結果がある。例えば、先方の情報を提供して欲しいと言うケースがあったとする。その照会先が複数あるとすると、まずここで面倒くささを感じるが、予め想定できる作業だから面倒臭いだけである。
次に考えられるのは、照会先からの回答が期待とズレている場合である。再度、照会し直さなければならないためだ。引用した増田もそれをいっているのだろう。
照会先の回答のズレ度合いは、事前には既知な関係でなければ予測できない。大きく外れるか、期待どおりでしか無く、期待どおりをベースにするならそれ以外は全てマイナスでしかない。
そうしたマイナスをベースラインである期待値に戻す手間や時間をコストとと捉えるかどうかである。
コストと捉えると、対策としてはガイドなどを作り、配布することになる。またこれが誤解を生みかねないのだが。
経験則の続きを話すと、先方の数と依頼内容と手段でどのように進めるかを考える。
具体的には、照会内容以外の回答が得られないように仕組み化する。照会内容がアンケートであれば先方に自由度を与えない方式を提示する。枠組みを作り、リスト、単位など誰でも同じ理解可能な方式を取ることが多い。
言い換えれば、相手に考えさせることをさせないと言うことだ。
さて、こうした段取り的な仕組み化はコミュニケーションコストなのだろうか。
異文化理解力 ― 相手と自分の真意がわかる ビジネスパーソン必須の教養
- 作者: エリン・メイヤー,田岡恵
- 出版社/メーカー: 英治出版
- 発売日: 2015/08/22
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログ (1件) を見る
カイゼン・ジャーニー たった1人からはじめて、「越境」するチームをつくるまで
- 作者: 市谷聡啓,新井剛
- 出版社/メーカー: 翔泳社
- 発売日: 2018/02/15
- メディア: Kindle版
- この商品を含むブログを見る