嫌いな上司は、自分から嫌いにしていた


なんであの頃嫌いだったのかな
誰にでも、嫌いな人は一人や二人いるものだと思うけれど、そんなことないものですかね。嫌いには、心底忌み嫌う人もいるだろうし、生理的にとか性格的に合わない人を含める人もいるかもしれない。心底忌み嫌う場合は、その嫌う背景には“何等か”嫌うに値する出来事があったのではないだろうか、と思う。自分が嫌だなぁと思う人にはそういったことがあったからね。
逆に、生理的に合わないとか性格的に合わない人の場合は、“こちら側”の問題であって“先方様”には全く非はないわけだから、とやかく言うことはできないわけで、こちらで何とか消化しなければならない。この問題は、ずいぶん若いころには問題の在り処とその対処の方法を幸いにも見つけられることができたから、まったく気にしなくなった。
で、心底忌み嫌う人がゼロではなかったし、それが偶然にも上司だったのでこれまた面倒なことであることは、誰でも容易く察することができるだろうと思う。で、なんであの頃あれだけ嫌いだったのだろうなぁ、と思うようになったきっかけがあって、それがまた、その嫌っていた元上司が同じ仕事をすることになったからだ。普通に考えたら、心のどこかで燻っていたものに火が付きそうだけれど、まぁ、実際つくんじゃないかな、なんて自分自身を傍観していたら、実際はそうならなかった。
いやー、逆に話が合うんだな、これが。笑うほど。時間は人を変えるものだ。変わったのは自分なのだが。



嫌いじゃなくて自分が嫌いにしている
再び仕事をすることになって、再会後の1回目や2回目にあったときは、こちら側は傍観しているわけです。忘れているわけではないよ、と。そして今度は何するんだい?って。でも、3回目には忘れてしまった。同じ目的があるとそんなことどーでもよくなるというか、傍観して警戒すること自体、馬鹿らしいと思うより、同じ目的をさっさと片付けるその仕事をすることの方に注力する方が楽しいと思ったから。
で、何が違ったのだろうなぁ、と、ふと、帰りの電車に吊革にぶら下がって外を眺めながら思い耽った。思い耽ったとと言ってもそれほどの時間考えていたわけではないけど。
線の細い若いエンジニアによくある傾向で、“線の細い”という表現はわかりづらい表現かもしれない、神経が細やかすぎたり、精神的に大らかでない、というとニュアンスが伝わるだろうか。そんな風なエンジニアに多いのだが、自分の視点だけで物事を考えて、その考えの中だけでグルグル空回りしてそれが悪循環しているような、そんなんだったんじゃないか、っていうことがそのころの“元”上司を嫌っていた自分が、と。
確かに何かあったことが間違いないのだが、それが自分の頭の中だけでグルグルして自分の心のなかで毒を履いていたのではないかね。>ワタシ。
あぁ、そうだ。相手をよく知ろうとしなかったのだろう。なんでそんなこと言っているのだい?と。情報の較差を自ら生じさせ、自ら原因を作っていたわけだ。今となってはそんなことすぐにわかる。経験してきたんだなとも思う。
そのころの仕事の仕方もアウトプットも今の自分から考えたら、“なんでそんなのでいいと思ったのよ?”と小1時間くらい問い詰めたくなるかもしれない。でも、これは自分だけの考察だからね。自分が忌み嫌っていた訳だから相手に聞くことでもないし、聞けることでもない。いじめとかそう言ったことではないから、自分の問題なわけで。


よく考えたら、好き嫌いをあまり意識していなかった
そんなことを吊革にぶら下がりながら思って、乗換駅で路線を移って、そう考えると本当に好き嫌い、いや違った、嫌いなんて思ったことがあるのかな、と。多分、生理的に合わないとか性格的に合わないとかを除けば、ニュートラルなんだね。どちらかというと無防備なのかもしれない。いやそれも違うな、何も考えていないんだな。好き嫌いは結果の様な気がする。でもその好きと嫌いには大きな開きがあってそこにほとんどの人が居るのだろうなぁ、と。




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アジャイルな見積りと計画づくり ~価値あるソフトウェアを育てる概念と技法~

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