自分で知を見つけることができないなんて

エンジニアには2つのタイプがある
何年も、マネージャとしてメンバと一緒に働いていているとメンバひとり一人のタレント性は理解が深まるし、新しいメンバが増えればより多くのタレント性を知ることができるようになって、ほかの職種のエンジニアより人の特性についての判別するコンピテンシを向上する機会が増える。その結果、組織を跨ったタスクに参画する機会に恵まれるようになると、一つ、二つ上の視点で組織のタレント性をうかがい知る機会を得ることになる。
エンジニアは、知と経験の塊だと思っている。ある領域のエンジニアリングについてより深く知を得ていて、それを裏付ける経験を積んでいたり、広い領域の知を知り大局的な判断ができるようなゼネラリストだったりというように。技術に関心があるから、自ら率先して知に赴き、それを口にして、身とする。そこには、知への積極性が内在している。
そう思っている。
その得た知はどうして得ているか。ワタシが思うように“自ら”知へ赴き、得ているだろうか。残念ながら、エンジニアを集団としてとらえた場合、半分のエンジニアは、その知を自ら頭、手足を使って得ようとせず、口を開けて待っているだけではないか。興味のあることはあるが、それは自分以外のエンジニアから提供されることがあたかも恰も当たり前だとおもっているエンジニアが多くないだろうか。
知に対して、自ら赴くエンジニアと口を開けて待っているエンジニアの2種類のエンジニアが存在しているのではないか。


takeばかりで何が楽しいのか
たとえば、組織内の研修でケーススタディやワークショップに出席しているエンジニアに受講動機を聞いてみると、興味を持っていたからという積極的な理由を持っているエンジニアもいれば、マネージャに受講するように言われたから、という指示されたからという自分の関心はそこに全くないようなエンジニアもいて、実際、後者の方が多いのが事実だ。言い換えれば、言われたからという受け身で研修に、正に、“受講”するように、折角、業務の時間を割いて研修に参画するのだから、何か一つでも得るものを得て帰ろうという自らの受講の動機付けをしないのだ。そのような動機で何が知として得ることができ、経験として使える日を迎えられるか甚だ疑問で仕方がない。
ケーススタディやワークショップでは、モデルをベースに実際、頭と手足を動かして、演習する。その場では、多くはグループで演習することが多いから、そのグループで一緒になった人たちと交流が生まれ、その場で感じたことや知への疑問、感想をグループの人たちと共有することで、さらに多くの知を知ることができより深く、又は広くする機会があるものだ。
ところが、その機会をただ過ごししてしまうエンジニアも少なくない。グループを循環していると、ひたすら聞き役に回り、自分が感じたことや疑問の一つも述べず、ただただ頷くだけで時間を過ごしているように。感じたことを自分の言葉で表し、他の人が話す感想から新たにインスピレーションを得て、気付きを広げるような、知のgiveをできる人は、素敵だと思う。一方、ほとんど会話に参加しないエンジニアは、知をtakeばかりするのであって、giveされた知をただ消費するだけの受け身のエンジニアとしか見えない。


五感で汗をかくほどカイカン
エンジニアは、自分の知に対して誇りを持っている。だから、レビューの場で門外漢のようなレビューアが不用意にツッコミを入れれば、技術的に長けているエンジニアはむきになっても反論するものだ。技術的なところでは、専門家としてただし意見を言う、それがエンジニアだと思う。
同じようにケーススタディやワークショップでも、その機会を無駄にせず、自分の脳ミソや鼓動から得られる汗を五感を持って感じ、それを自分の言葉で理解してそれを共有することは、エンジニアにとってカイカンなハズだ。少なくともワタシがそうだから。ワークショップに参画したエンジニアにランダムにインタビューしてみるとやはり同じような意図を彼らの言葉で返してくれる。エンジニアは、知を得るために自ら得て、その知を自分の言葉で理解し、それを共有することでさらに深みと広さを増すことを知っている。それがカイカンだと思えるから。







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毎晩少しづつ読んでる。

アジャイルな見積りと計画づくり ~価値あるソフトウェアを育てる概念と技法~

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