もう誰も叱らない時代
叱られることは屈辱か
みなさんがお上品になったのか、時代なのか、自分がご幼少の頃と比べたら随分減ったのでないかな。子供の頃は、子供が叱られている場面に遭遇することなんて特段“変わったこと”ではなくて、普通のことだと思ってみていたから。
そういう自分も、子供の頃は、不条理に叱られたことがばかりだ。
確かに自分だって自分のこともに対して叱ることは気を使う。叱ったあと、自分の気持ちをふりかえり、嫌な叱り方をしたら、次は変えようと思うことだってある。どちらかと言えば、叱るより、やって欲しいことがあれば“それをするように促す”方が多い。
叱られることは、子供ばかりが叱られることでもなくて、仕事をしていれば、その仕事の仕方や仕事に対する姿勢が悪ければ、叱られることもある。どちらかというと、今風に言えばdisられる方が多いのかもしれない。そうだ、disるのってダメ出しだね。
そういえば、こんなことがあった。もう、何年も前のことだ。比較的大きな執務室で確かプロジェクトマネージャか何かの人がメンバを呼びつけ、正に小一時間ずっとガミガミ言っている。ずっと。結構広い周りに聞こえるくらい、一方的に。
周りはとてもウンザリでしかない。とても迷惑だった。まぁ、自分としては「へー」としか、そのときは関心を持たなかったが、同時に“
自分はこんなことはしないようにしよう”
とも思ったものだ。
叱り方、叱られ方は色々あるが、それは叱られる方にとって、屈辱なのだろうか。
褒めて伸ばす
世の中、すっかり
“褒めて伸ばす”
ことが一般に浸透してきたのではないかな。ネットを見ていても、“モチベーションが下がるから”、とか、いろいろ理由付けをされて、“叱り方を使い分けよう”、だとか、“みんなの前で叱るのはやめよう”、だとか。それって、叱られる立場でも叱る立場でも、そうだと同意できることもあるけれど、なんとなく、オブラートに包んで、
“オブラートに包んで叱っているけれど、察っすれ”
と言っているようにも思えてならない。それは“空気嫁”の延長なのだ。叱る方は、対面的にとても良い。なぜなら、穏やかな表情をしてオブラートに包んで“指導”すれば、“あのマネージャは叱らない。優しく教えてくれる”マネージャ像となるから。叱られる方は、みんなの前で叱られることが減り、言い方もオブラートに包まれているので“嫌な思いをしなくて済む”わけだ。
叱られて気付くことだってある
人は、“身の危険を感じる嫌なこと”を知っていなければ、それを“二度としない!”とココロに刻むことはないだろう。何から何まで叱れというわけではないが、大切なことまでオブラートに包んでしまえば、それは叱る方が叱ったつもりでも、叱られた方には何も残らない。
だって、失敗して間違っても、オブラートに包んでしか“指導”されないからね。ココロに残らないし決して誓わないのだから。
“叱られるから”や“怒られるから”は、そう表現することが簡便だからであって、未来に生じる不具合をその人に押し付けているだけであって、本心は“自分は失敗したくないんだよ”のココロの表現だ。それは、二度と嫌な思いをしたくないのであって、それは一度失敗して叱られたことに懲りたから。
繰り返してもどうでも取り戻せることもあるが取り戻せないこともある。取り戻せることは、どうでも良いことだから、どうでもよい。そうではなくて、一度失敗して叱られて、失敗して叱られることなのか、失敗した自分への不甲斐なさが嫌なのかは人それぞれだが、どちらにしても失敗することを“嫌だ”と思うことに気付いているからそれを回避しようとしなければ、と気付く。
叱られることに対する私見
ご褒美だなんて思ってはいないが、自分は叱ってくれる人は嫌いではない。どちらかというと気に掛ける。気に掛けるということは、関心を持っていて、好感していることの証左でもある。つまり、ありがたい、と思っている。
“叱ってくれるうちが花なのだ”
そう、叱ってくれる人がいるうちが花。叱られ方も、今、その叱られ方が不条理だと思っても、頭を冷静にしてみたり、時間を置いてみたら“そういうことだったのか...”と気付かされることもある。たまに。それは、先に述べたように叱ってくれる人がいるうちしか得られない経験であり、叱ってくれる人がいなければ得られない。
多分、もう誰も叱ってくれることもないだろう。
アナタは?