怒らないための3つのこと
昨日、怒る人の行動についていくつかツイートしたところ、割と反応があったのは日頃から怒る程度はあるとしてもそうした人と接することが多いいのだろうかと思ってしまうのです。
その、昨日いくつかツイートしたうちの一つがこれ。
得てして、怒る方が情報を持ってることが多いのに怒る相手が行動しないことに腹をたてる
— ふみさん (@finayama) 2017年6月13日
冒頭で書いたこと、世間では日頃から怒る人に接することがあるんだなぁ、ということと自分が経験したことそれ自体が怒っていた人に接したからそれを感じたことが同じことに気づいてなんだかな>自分のボケにクラクラするなど。
すっかり、ワタシはその周辺では怒らない人認定されているような発言ばかり聞くような気がしてならないのですけれど。ドライだとか、割り切っているとか。
側から見てると面白いようにわかる。
— ふみさん (@finayama) 2017年6月13日
怒ってる人はこちらをドライとかいうわけ。
見えてないから
確かに怒りはしないです。「めちゃめちゃ頭にきたよ!」なんてことはもうずっとないかな。ああ、過去の自分自身の判断のアホさには頭にくるを通り過ぎてあきれるばかりなんてことはあるけれど。
怒る構造を自分なりにロジックを作れてしまうと、怒りが沸々と湧いてきそうなとき別の自分が
「おいおい、お前怒るんだ。それさ、ペインを突かれているんだろう」
と突っ込むようになるんですよ。
じゃあ、どうして怒らなくなったか、メンバからワタシを見たらドライや割り切っているように見えるようになったか思いつくことをいくつか。
情報の較差
怒るという行為は自分と他者との関係性に生まれるものです。自分自身に怒ることもあるけれど、それは今の自分に対して過去の自分との関係性で生じているのです。
怒るという感情は、自分が他者へ期待をしているときに、自分に情報の優位性があるときに生じやすいです。こんな状況になっているのになんでやらないの、的な。それが冒頭のツイートな訳です。
得てして、怒る方が情報を持ってることが多いのに怒る相手が行動しないことに腹をたてる
— ふみさん (@finayama) 2017年6月13日
こうした関係性があると気づいたのはゲーム理論の本を読んでから。
怒っている状況が情報の較差であることがわかれば、その状況であることを示唆すればいいわけだし、利害がないければ放置しておいてもいいのです。
怒っている本質を見抜く
怒っている人を観察というか眺めているとだいたい周りが見えていないです。とても単眼で狭窄な思考でしか物事を見ていないのです。
怒るときは一面的にしか物事が見えてないんだよ
— ふみさん (@finayama) 2017年6月13日
そんな風にしか考えていないときにいくら口で言ってもこちらの言葉に耳を貸してもらえません。
基本は放置ですね。頭が冷えたらお話ししましょう。
それでも話さなければならないときもあります。そういうときは、怒っている本質を躊躇なく突いていきます。
何に対して怒っているのか、それは、たったこれだけのことではないか、と。例えば、情報の較差で行動しない人に対して怒っている状態のときには、情報の較差を指摘し、
「情報を持っている側の怒っている人がやるべきことをやっていないのではないか」
と突きつけると大概は「ああ、そうか」となります。その上で、(まだまだこれから)あなたの怒っている理由はこれではないかと些細な原因であることを突きつけると急に鎮火することが多いです。あれ、なんで怒っていたんだ、みたいな。
子どもに理不尽に怒らない(ようにしている)
一番は、自分の子どもに対して理不尽に怒らないように、つまり、感情で対応しないようにと子どもが生まれたときにそう接しようと思っているからです。
なぜそう思ったかはまた別の話だし、話すことでもないので。
ただ、親という絶大な影響力を持っている親が争う手立てを持たない子どもに対して理不尽に怒るのは誰も幸せにならないのです。
未成人の子どもと大人。情報の較差は歴然です。その関係は成人済みの大人でも同じです。大人の方が情報を持っているので僅差になる分、よりセンシティブに物事を見る必要があるのです。
怒るよりは、笑いながら生きていた方がいいからね。