世知辛い世の中なのは、自分を受け入れ愛することができる人が少ないからではないか。

総じて、若い人は自分のことを好きというよりは、嫌いだということが多い。それは、はっきりしない自分の性格だったり、背丈だったり、顔つきだったりで、それぞれの若い人により少しずつ違っている。
外れることなく、自分自身も若いころは、何もできない自分が嫌いで、かと言って、特別努力することもなく流されてこの数十年を無駄に過ごしてきた。顔つきならはっきりしない目つきや、体型なら太り気味で中途半端な背丈だったり、努力をしないのに正解の出ない頭の中や理路整然と考えることができない頭の中身など、それは、すべてが嫌いだった。ただ、そうは言っても、自虐的になる勇気は一切持たず、ダラダラと日々を重ねるだけで歳を積み重ねてきた。
歳を積み重ねてきた中で、ちょっとした成功体験で自分を自身で評価できることがあったとき、それも周りがまだそれほどその成功を達していなかったりするとき初めて自分に若干でも少しの優越感と小さな自信を持てるようになり、それほど自分も悪くないな、と思えるようになって、自分の存在を自身で認められるようになった。自分を認められるようになる部分を持つようになると、好きなところ、認めるのはいやなところを含め、ありのままのすべての自分を認知するようになれる。

まず、自分自身を愛すということは、自分自身を認知して、その存在を自分自身で受け入れられることである。好きであることも嫌いであることも、自分が認識できるすべてを受け入れられるようにならないと、本当に隣人を愛することができるようにならないであろう。なぜならば、自身の嫌いなところを受けれいる度量がなければ、隣人の嫌いなところを受けれる余地がないからだ。

だから、ことあるごとにこう言うのだ。誰一人嫌いな人はこの場にいない。直接言葉で伝えるのは、そこまでだが、実際頭の中で思っていることは、隣人に対する思いそれは、嫌いが基準点であるのではなく、なんとも思わない曖昧に扱える領域を持っていて、まずは、皆さんその中にいて、関係の中で好感を持てる経験を得た隣人は、そのベクトルにシフトするだけなのだ。
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