自分が判断したなら、言い訳はいえない

いつでもどこでも判断している
大きなことでも小さなことでも何かしようとするとき、自分で“どうしようか”と考え。行動する。
何かを行動する対象となる“こと”が自分にとって、受け入れられるのかそうでないのかなどを艱難などを勘案して、自分の考えを決める。
それが“判断している”と思う。



自分の行動の判断は誰がしているのか
判断は何時でもしているのだろうか。
何でも判断なのだろうか。

そうでもない。
例えば上司から行動を指示されているなら、自分で判断しているとは言わない。
判断とは自分で自分の考えを定めるのだから。


自分が判断したのに、人にいわれたからと言い訳を言うな
指示されたのなら、ご指示に従って、とはいえるだろうが、自分で判断して行動したなら、そんな言い訳はできない。
自分で考えたなら、それが上手くいこうが、失敗しようが、その結果は、すべて受け入れよう。
判断したなら、他人のせいしてはいけないということだ。



間違いは多い
日常の小さなことの判断の方が割りと正しい判断ができているような気がしないだろうか。
それは多分、判断するための情報収集が少なくてよいからなのだろう。
また、助言をしてくれるひとが多く見つかるからかもしれない。

日常、なかなかない大きな判断をするようなことの方が、自分自身にとっても“判断をする機会が少ないから”不慣れで上手く情報を収集できなかったり、判断をするタイミングを間違えたりする可能性が高い。
それでも判断をしないといけないときに、判断をする。
そしてその結果を受け入れる。
受け入れた経験が二度と繰り返したくなければ覚えておくしかない。
それがどうでもいいなら、忘れてしまおう。


どちらかと言うと
日常の未経験なことにチャレンジする、例えば、今まで身につけていなかったものを身につけるようなことの方がドキドキしたりしないだろうか。
今までつけていなかった色を身に纏うようなことだって。
そんな日常の判断を繰り返し、自分を強くしいるんだって考えれば、判断をすることが楽しくなるんだ。



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