なぜそれが必要かを説明できるように


大体プロジェクトの中で揉めるのは、伝える側が自分の頭の中で思っていることや自分だけの時間で知りえた知識を周りの誰もが同じだけの情報量を持っていると無意識に自分自身に思い込ませた土台の思考の上で物事を押し込もうとすることが原因に他ならない。


いくら他のメンバと同じタイミングからプロジェクトに参画をしていても、個人の背景は、歴史は違うわけでそれさえも気づかないことは相互に持ちうる情報には必ず較差が伴うものだということも知りもしないのだろう。


コミュニケーションのギャップは、会話の中で相互にやり取りをする情報の較差そのものだし、それは伝える側のみが知りうるこれから伝えようとする物事について一つひとつ紐解きながら伝え、その会話の情報を受け取る側のインタフェースである表情や態度から伝えたいことがまま伝わっているかを知ることができる立場にいるのにもかかわらず、それをしないのはなんとももったいないとしか言いようがない。


会話というインタフェースは片方向でも反二重でも全二重などどれにでもプロトコルを選ぶことができる。ただ、どのプロトコルを選ぶか一つひとつの手順を相互に踏むのか、フレームだけ投げれば相互にお互いが会話というコンテキストを流し受けつつその世界を成立させることができるかは相互の接続回数という経験によるところが大きい。


ならば結婚して20年もしたら高いコンテキストの中で必要十分な意思伝達をできるのかと言えば、週末のショッピングセンタでの会話を見かける限り怪しいと疑わざる得ないシーンに遭遇することも少なくない。


割と多少の経験を積んで小生意気な年ごろになったり、自分の経験を過信するようになると、自分より経験の少ない人に対して高圧的な態度を取ったりバカにしたりするようなニュアンスの会話で周りの人の存在価値を無意識に握りつぶしているヒトを見かけることがある。それがワタシのメンバなら歯に衣を着せないような辛辣か将又やんわりとそれこそ会話のコンテキストに注意しないと気付きをえられないようなポジションで言うかもしれない。


会話でコンフリクトを起こすのは、それを伝えようとするときに必要なコスト、つまり相手が自分の話していることの理解を得ようとしているかを必要なことなのに、わざと気づいていないのかを装うようにどうしようもないことから高級なことまでそのコミュニケーションで得られるものがあったとしてもそれを最初からエクセプションに投げるかのような行動をとるのが不思議でならない。


会話をしたいのはその会話をとおして何等か自分にとって価値のあるものを得るためなのだから、そのためだけをもってしても得られるコストを相手に理解できる方法で伝えることが結果的に無駄なコストを払わずに済むのである。だからこそ、いまこれからコミュニケーションを取ろうとすることの背景や必要性などのワタシにとっての価値を共有することをしなければならないのである。


好きなら好きと、愛しているなら愛していると、助けてほしいなら助けてほしいと伝える他ないのだから。