当たり前のことを当たり前にやることはとても難しい


振る舞いやdeliverableのレベルが違う
いつも同じメンバで仕事をしていてれば、ワタシの振る舞いもその振る舞いの結果でもたらされるdeliverableも過去の経験から伝わっているし、逆にメンバの振る舞いもその結果のdeliverableもレベル感を知っているもので、そうしたお互いのプロセスとアウトプットを知っているという状態はその点のコミュニケーションにおいて高いコンテキストな状態ですね。


これはその関係が維持される間において相互の状態が良好であるならとても居心地がいいものです。だって、言わずとも要求される品質レベルがわかっているし、反対に期待値もそうなのですから。


アジャイルにおいて、チームメンバは可能な限り継続しなさい、というのはこの点があって、高いコンテキストの状態を維持することでコミュニケーションをリビルドするコストを下げることで短納期のスプリントを実現する、というのだと理解しています。


ただ、実際のプロジェクトは、特に開発や構築のようなSI系のものは、維持管理と違ってプロジェクトチームがその時々にビルドされるので最初のコミュニケーションを構築するコストがとても掛かるものです。


はじめて会って、はじめて意思疎通を試みて、相手の力量やdeliverableと対峙するときの内心は相手と自分自身のレベルの較差によって悲哀が生まれるのです。


それは誰の当たり前?
その相手と自分自身の較差を生むもののレベルは一体誰のものでしょう。話はそこからなのだと思います。

“それは誰の当たり前なのか”


ワタシという自分自身の当たり前と思ってやっている振る舞い、その結果に持たされるdeliverable。相手が当然と思ってやっている振る舞いとその結果によって生み出されるdeliverable。どちらも同じですが、どちらも違うものです。

“それは誰の当たり前なのか”


もし、ワタシとメンバとの較差があるならその格差を生んでいるのは誰と誰で、一体どの視点で見たときに較差が生まれているのかを認識することとその視点を合わせることがそのギャップを解消する最初の一手で、最後の一手ではないかと思うのです。


ワタシの当たり前とみんなの当たり前と
それでも、振る舞い人は違うわけで、その結果としてもたらされるdeliverableは全く一緒にならないのはそれを生み出す人の意志が割り込むからです。


そのギャップを少しでも抑えるのがエンタープライズウォーターフォールで言う標準化だったり、アジャイルのdiscipline(規律)だったりするわけです。


それは相互にその基軸を理解してそこの合わせようとしなければ、絶対、歩み寄らないものだし、幾ら歩み寄っても人の意志が働く限りぴったりとしないものです。


だから難しい、というのです。でも、それをわかった上でどこまでを目標にするのかは、それこそ、ワタシとメンバで膝を詰めて決めないと1ミリだって近寄れないと思うのです。そう考えるとコミュニケーションコストって、高いけれど欠かすことができないものなんだなぁと思うのです。