生きる失敗、無駄な失敗

振り返ると30代半ばまでの失敗はその失敗を生かすことができなかった「無駄な失敗」だったと思うのです。30代半ばがひとつのターニングポイントなのでそこからは全部が無駄な失敗ではなく、なんとか、そこそこにその失敗を生かせているのではないか、と。

生きる失敗

 生きる失敗としているのは、進捗させてみたら想定していたとおりにならない状態になってもその作業期間のお終いにはなんらかの修正をすることで失敗したことを作業期間内にフィードバックして別の手段を考えるように方向転換したりするケース。

別のパターンは、がっつりと心に2度と繰り返したくないほどの、謂わばトラウマのような失敗をして、同じリスクに対する感度を目一杯あげて同じようなケースの場面に遭遇したときには、2度と繰り返したくない経験を引っ張り出してきて同じ轍を踏まないようにすることかと。

前者の小さな失敗は、その作業内で上手くいかないことを経験的に識別して、別の選択肢にスイッチすることで辻褄を合わせる感じです。大事なことは、上手くいっているか、ダメダメそうなのかの判断ポイントの見極めです。

この判断をすると言うことに全力をかけておかないと、ズルズルと引っ張ってしまい、終いにはリカバリできなくなってしまうのです。そうならないように、どこまで我慢するか、スパッとスイッチするかは悩みそうなら、作業を始める前に決めておき、我慢し過ぎたり、逆に効果を得られる前に間違った判断をしないようにすることは気に留めておいた方が良いです。

 

無駄な失敗

 生きる失敗の真逆といってしまえば簡単でそれっぽいですが、実はそうじゃないのです。

まず、無駄な失敗とは失敗している状態で終わりにしてしまうことです。もちろん、プロジェクトを失敗したと組織が判断してプロジェクトを中止してしまったら何かしらの失敗があったと言うことですし、バサっと突然に終わることの方が多いのでそうしたケースでは取り戻すためのスイッチなり、後続する工程で修正策を行うことができません。

これはプロジェクトの特性としての有期限性のためなので、それはそう言うものだ、としておきます。

ではどうするのかといえば、失敗してしまったことの当事者として次はどうするのかと言うことを行動に移せるか移せないかが無駄な失敗にしてしまうかどうかの判断ポイントなのです。

失敗した当事者として、失敗した様々な要因を分解して、どこの判断からの積み重ねで方向を間違っていったのか。これを人が判断したからとしてしまうのもまた無駄な失敗となってしまいます。

しなければならないのはどこから判断を間違え続けたかの起点を探すこととどんな情報でどんな判断基準で判断をしたか、定量的にすることが無駄な失敗のままにしておくか、生きる失敗に質を変えるかの分岐点になります。

 

 

失敗はしていい、小さな失敗をたくさんしようと言うのは失敗のままにしておかないことを前提としているのです。

穿った見方をすれば、結局、コントロールできる範囲の持ち方の捉え方で辻褄を合わせているだけなのですけれど、そのくらいでないとオチオチと失敗できないので、このくらいのゆるさでいいのですよね。

 

 

 

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