修羅場やデスマは経験すべきか

自分の過去のエントリから『デスマ』でキーワード検索すると出てくるわ、出てくるわ。3ページあるから、30件弱あるのだろう。

2012年のタイトルを見ると 若いエンジニアは“デスマ”を買ってでもせよ なんてタイトルのエントリもあって自分でもおかしいんじゃないかと思う。何を書いたかを確かめたら、自分の閾値を知ろうと書いている。何もデスマでやる必要はないのだが、自分の閾値を自分の生存のために知っておくのは必要なことだ。

飲み会で、シニアエンジニアやマネージャで修羅場やデスマを武勇伝のように話すエンジニア達がまだ生息している。平成も終わろうとしている時代にデスマからの生還者のいうとおり、デスマは経験する必要があるのだろうか。

気づいていると思うが、武勇伝を語るのは生き残ったエンジニアだけだ。健康を害したり、メンタルに傷を受けたエンジニアは武勇伝を語らない。

デスマから帰ってきたエンジニア達の言い分は、限界の中でやり切る力をつけたとか、リーダーシップ力を身につけたとか、なんらか自分の能力として身につけたことを自慢げに話す。

武勇伝や俺すげーだから自分のことについて話すか、デスマになった戦犯についてdisるかで、どうすればデスマの案件を避けられたか、どこがターニングポイントだったかは語り継ぐ事はない。プロジェクト完了報告は、戦犯者リストでしかなく、再発防止は使い古された策しか書かれていない。

 

自分の能力について自慢しているということは、デスマで自己のスキルを開発できたということになる。おなじシチュエーションを再現できれば同じ結果を得られることになる。

再現できないのなら、そのスキルは修羅場やデスマでしか学べないことになる。

では何をデスマで学ぶのか。6年前の自分は、限界と書き残している。

 

でも、自分の限界は知ってほしい。デスマにならないででも自分の限界を知る方法はないものかなぁ。

若いエンジニアは“デスマ”を買ってでもせよ - 室長のひとりごち

 

限界とはなんなのだろうか。  

仕事(やらなければならないこと)と個人(楽しみ)の境界のバランスで、どこまで個人を制限できるかの限界点のことではないか。

確かに、6年前くらいのプロジェクトの立て直しでは、自分の時間を確保し続けることが割と冷静に生き抜けたコツだったかもしれない。

ネットやTVで時々見かけるような新入社員が放り込まれるブラックな合宿研修がある。こうした合宿は長時間の拘束や外界との接触を禁じる。仕事で時間を占有し、個人の時間を削りに削る。なるほど、恣意的に作られたデスマ環境である。このデスマ環境を想像するだけで、無理して限界値を知る必要性は不要ではないか。

6年も放置していたのは、薄々本当に必要なのか疑問に感じていたのではないかと思い至る。

まあ、プロジェクトマネジメントを当たり前のようにやっていればデスマにはならない。そっちに注力した方が健全だし、誰に必要な経験かわからないものを無理にやることもないのだ。