知に働けば蔵が建つのかどうかしらん
内田樹の「知に働けば蔵が建つ」を読了す。本の中で気にかかったところをあ
げることにする。
ざっと、気になったところに付箋をつけて読んでみた(これははじめての試み)
のだが、付箋は7つほど付いている。全部書くのは面倒なので、とりあえず、
ひとつ取り上げてみよう。
「悩み」というのは自分の力ではどうにもならない苦況のことであり、「問題
」というのは自力解決の方法がある苦況のことである。
何ということだろう。自分の中では、曖昧な状況は具体的な課題にしよう、と
いい触れ回っていたけれど、もっとわかりやすい言い方があったのだと思った。
いろいろ、グチグチと内側に向いてモヤモヤしていることもあったのだが(今は
そんなことはしないでスパッと片付けてしまうことが多い)、若いころは普通に
ウジウジしていた。結局、そのウジウジしていたことは、自分でコントロール
できないことを自分で解決しなければならないと思い込んで(解決できないのに)
愚図愚図している状態なのだ。
そのように、つまり自分でその事象を解決できないと見切りをつけることがで
きれば、いつも心は晴れ晴れするに違いない。実は、去年の夏からトラブルに
巻き込まれていたのだけれど、記憶は怪しくなるので関係する人との会話は、
都度メモを書き留めて忘れないようにして、トラブルの結末を想定して、その
被害の規模感の見通しをつけて、事の成り行きを心理学的というか社会学的と
いうか若しくはゲーム理論かも知れないけれど、立ち位置はともかくそれぞれ
の発言を第三者的に概観することに腹を据えると、これがまた腹が立たないの
である。忘れたころに、「あの野郎」と思ってみたりすることを試みるのだが、
もう、自分の中では見通しがついてしまっていることなので、もうどうでも良
く片付けられるくらいどうでも良いことに優先順位が下がってしまうのである。
そう言えば、最近本当に心底腹が立つことがないのは、早々に曖昧模糊として
いる「悩み」をさっさと具体的な「問題」に変換できることができるようにな
ったためかもしれない。
あとの6つは、いつ書けるかわからないので、メモを残す。
ニートたちが彼ら自身が抱えている問題に直面する気がないように見えるのは、
現に彼らの扶養者に彼らが徒食させているだけの金があるせいで、問題を先送
りできているからである。
日本というシステムはあの方々の滅私奉公的オーバーアチーブによって支えら
れているのである。
中略
人間は「すねを齧られる」という経験を通してはじめて[自分にはすねがある」
ことを確認し、「脛までしゃぶられる」という経験を通じてはじめて「自分に
は骨がある」ということを知るという逆転した仕方でしかアイデンティティを
獲得することが出来ない生き物である。
個人は共同体の「結節点」として構築されるものである。だから、個人情報と
いうものは個人が「所有する」ものではなく、むしろその人を取り囲む共同体
メンバーがその人に「贈与する」ものである。
人間の社会的能力は「自分が強者として特権を教授するため」に利己的に開発
し利用するものではなく、「異邦人、寡婦、孤児をわが幕屋のうちに招き入れ
るために」、その成果を人々と分かち合うための天から賦与されたものだ。
メリトクラシーというものは、努力するものに報いる制度である。それは、誰
でもその気になれば努力することが出来るということを前提としている。しか
し、「その気になれば」というところに落とし穴がある。というのは、世の中
には、「その気になれる人間」と「その気になれない人間」がおり、この差異
は個人の資質ではなくむしろ社会的条件(階層差)に深くリンクしているからで
ある。
だから、この世代の特徴は、社会問題を論じるときに「悪いのは誰だ?」とい
う他責的構文で語ることには抵抗がないのだが、「この社会問題に関して、私
が引き受けるべき責任は何であろう?」というふうに自省されることが少ない
という傾向がある。
ここまで。