失敗をサスクリプションで買うことが将来のリスクを回避する


50歳なったらもう少し大人になって、いわば達観した心境でものごとを、仕事をすることができるのだろうくらいで思っていたらこれが全くもって違うので笑うしかない。小さな失敗は星の数ほどあるし、若い頃の大きな失敗は未だ引きずっているようだ。


そうでなければ、もう少し組織の中で良いポジションにいたかもしれない。変な意味で存在感があるのが玉に瑕で偉い人と幾つもつながりがあったり、非公式のコミュニティの中でのポジションは勝手に押し上げられたりと、それをワタシが良しとしているかどうかはコメントしないけれど、総じて世の中、ワタシの人生は頭から尻尾まで上手く行かない。


大成功なんて仕事であった試しは記憶にはさっぱりないけど、オフ、プライベートであれば媒体を出せたのは大仕事を収めたのかもしれないかなぁ、と。その大仕事に比べて仕事の方は鈍感なところが傍若無人というか側から見れば武闘派に見えてしまうところが本人に意向と違っているのだけれど。


仕事やオフを通じてやったかやっていないかを言えば、好きに判断して勝手にやってきたので、やれることはやってきたということでその結果について悩んだりすることがそれほどないことは判断を決している当事者意識があるからなのかしら。


ことに、ネットや書籍や人間関係から学ぶことが、そうした自己判断について悔やむことを選ばせるよりは、自分の無知を知るきっかけになっている方が大きいのですね。あの失敗はそれを知らなかったから起きたことで、再び繰り返さないようにするためには学ぶしかない、と気づかせてくれる。


つまり失敗は良い経験として次につなぐことができるようになったところが若い頃から比べて少しばかり学習したのではないか、と。


これって、ワタシのまだ少し残っている将来について自ら可能性を毀損してしまうことを回避する術を身につけたんだなぁということなんですよねぇ。そういったことを今風に表現するなら、失敗をサスクリプションで買うことは将来のリスクを回避するために支払っているんだと。


そう考えると、失敗は身銭を切っても無理をしても買うように思うかもしれないけれど、それは掃き違いなんですよ。あくまでも自分の将来のリスクを回避する、場合によっては受容するためにコストとして抱えることであって今の自分を危険にさらすまでやることでもないんです。その辺のバランスはそれそれの感性なのでこれが正解というところはないんですが。


何れにしても失敗をサブスクリプションで買うにしても、その失敗を何回も繰り返すようではお話にならないのは当然のこととして、いちいち失敗をして塞ぎ込んでしまっていては前に進まないのでそれはそれでよくないかと。


サブスクリプションとするにしてもその失敗を次に生かさないとね。