ブログも、魔法も、あるんだよ


それは前も書いた、ような……
不思議なもので、一度はやってみようと思った日記は続かなかったし、手帳に色々書き込もうとトライしたこともあったけれどそれも思ったようには続かなかった。でもね、ブログは続いているんですよ。なんででしょうね。
日記は、その閉鎖性から、つい、内面的なことを書く傾向があるのではないかと思ったりすると、その内面的な日記を後で自分自身が見たときに感じる“若さの至り”や“青春の甘酸っぱさ”に汗する自分に気付いたり、ましてや家族に見られたときの気まずい空気の重さが想像を絶すると知覚したときの絶望感に思い至って続かないのではないか、とつい思い巡らしてしまう。


後悔なんて、あるわけない
それと比較して、ブログならグローバルなダイアリーなわけで、自分の暗黒面はペルソナを被るならそれもありだが、たとえ顔バレしれも大丈夫、なんとか精神崩壊しないゾ、くらいなようにコンテンツを自立的に制御しつつ、毒気を発散させることが出来るので書くことが出来るのだろうと思う。もちろんブログも非公開設定できるので、クローズでも書き込むことが出来るがそれなら日記かメモ帳に最初から書き込めばいいのである。


認められたらうれしいなって
ブログが続けられるのは、一つは自分のスペシフィックな世界を持て、気持ちを言語表現化できるというところに人をひきつける力があるからだろう。二つ目に、その言語として表現したコンテンツを書き手のスペシフィックな世界は意外と共通の関心領域を持つ知らない他人も持っていて、ほかの人から自分の表現が認められるという“認証要求”が例え一人の読者からの認証であっても満足されたときの感動は変えがたいものだ。三つ目に、書き手が関心を持つスペシフィックな領域は、それがインターネット上でクラスタ化できる可能性を秘めており、そのクラスタ化が具現化したときの“うれしさ”となってあらたな力を持つ糧になるからだろう。


本当の気持ちと向き合えますか?
そうは言っても、書き手が分厚いペルソナを被るなら、そうそう続かないだろう。だって疲れてしまうから。自分でない自分を演じることは、容易くなく、消耗も激しい。本当の自分の気持ちから湧き出る気持ちと不意に向き合ったとき、ペルソナは崩れてしまうものだ。いくら、グローバルに公開するとしても、無理な姿で演じるなら長続きはしない。その厚いペルソナになりきることが出来なければ。


わたしの、最高の友達
ブログを自然体で書き続けることは難しいのだ。書き手本人の気持ちは気まぐれだし、時間の経過で起きるイベントはブログを書く時間を遮るだろうし、書き手本人の気持ちが波のように揺れるのだから。それでも苦しみながら書き続けることがいつの間にか一つのブログの形を作り上げ一定期間守るようになり、それを続けることが殻を破るキッカケを生み、そこから別の次元のものに離れていくのだ。そうして書き続けられるブログは自分の分身となって、変えがたい“わたしの、最高の友達”となるだろう。

まぁ、つまり読んでくれたらうれしいよ、ということです。そんなこと言わせんな///






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