残業する人を評価するのは出来る人に仕事を振る=仕事が多くなるという背景があるからじゃないの

目標管理制度を取り入れている組織でも、その組織の元の文化が旧来であれば、所詮、年功序列や評価者との関係のバイアスがかかるもので、それは、評価を受けるものとしての実体験からも「そんなものだよなー。」って思ってる。何も、何かを諦めているのではなくて、不条理な塊の存在である人であるからこそ、また、そうでなければならないんじゃないの?なんてことも思ったりするところが自らが曖昧であることの証左なのではないかと思ったり。


どのような組織においてもできる人はできるし普通な人は大半だし、何が得意なのかわからない人もいるものです。それが組織であって、多様性なのだと思っています。それは優秀な人ばかり集めても結局、2:6:2に出来る人のグループ、普通の人のグループ、どちらでもない人のグループになるけれど、組織全体で見たら中の人ひとり一人が優秀なので別の組織と比較すれば、全体としてのアベレージはとても高いから、それは優秀な人の中での2:6:2の話でできる人はできる人で大変だなぁって他人事として同情を寄せるだけです。


組織が全体として優秀でもそうでなくても、仕事の現場になんば部分最適解で仕事は回ります。一見、全体最適解で仕事のアサインから推進までなっているように見えたとしても、仕事にビジネスを左右する重要度がある限りその個別の案件のプライオリティで個別最適解にcriteriaは振られるのです。そうしないと重要な個別案件が炎上するから。


ここがポイントです。結局、個別案件の重要度でアサインや推進やそのフォローが左右されるなら、それを抱えられる人をアサインせざる得ないのです。それは、2:6:2の上位2の人に仕事が集中することに他ならなくて、その結果として残業が多いという事象として現れるのではないか、と思うんですがどうでしょう。


そうとするなら、残業する人を評価しているのではなくて、残業をする人は残業をするだけの仕事をアサイメントしているから他ならなくて、結果として残業一杯の人が評価されているように見えるけれど、出来な人には仕事なんて任せられないんだから残業なんて少なくて当たり前で、その結果が評価されていないことと結びつけてもそれは思考が足らないよ、と思うんです。


何につけても例外があるもので、恰も仕事を沢山しているように見える人が評価されてしまう誤差を生んでいるとするなら、それはマネジメントがちゃんとジョブアサインとアウトプットを相対的に見ていないだけじゃん、なんでしょう。


こんな風に書いておきながら、そうすると効率よく仕事の工夫をする人がーということも思うんだけど、そのカイゼンや工夫で得られた価値をそれをした人は評価する人の印象に残るようにしているか、ってちょっと思うんです。


できる人に仕事が集まっての理屈はそのできる人はすでに目一杯なわけでそうしたら自然と楽になるように工夫すると思うんです。その人はすでにアサイメントで十分評価者に認識されているんだから放置でいいわけですが、それほどのアサイメントでない人が工夫やカイゼンヲした時どうするかってことです。


それね、もう、印象が残るようにアピールするしかないです。定量的にコストを削減したとか、それを横展開して組織のコストを低減したとか。それ、アピールしましょうね。アサインする方ってアサインした時点で忘れちゃうんですよ、いろいろ。だから、アピールして記憶も実績も教えてほしいんです。